2010/02/27

倫理の時間

MBA教育にとっての倫理。

建前であろうと本音であろうと、経済危機の反省を迫られたMBAプログラムにとって、倫理教育は向こう10年は不可欠のカリキュラムとして設定されることになるのだろう。日本でも、持続的経営、企業の社会的責任、ステークホルダー型経営、といったテーマから、強欲資本主義のようなキャッチフレーズに至るまで、世界中の批判ネタを提供しているのだから。

GSBでも、倫理は一年生の必修科目である。2月の初頭より、その授業がスタートした。正直なところ、思っていたよりも授業が実践的で、先端的な内容であり驚いている。その取り組みを少しご紹介しておきたい。

まず、カリキュラム。半期の授業なので、全9回となっている。

1.イントロダクション/CSR
2.直観
3.状況
4.自分へのごまかし(Self Deception)
5.功利主義
6.義務とは
7.正義とは
8.学びをどのように活かすか
9.まとめ

2~4回が心理学的アプローチ、5~7回が哲学的アプローチと名付けられていて、現在、第5回が終わったところ。
これらの学習には、ケーススタディ、経営環境を題材にした教科書と、古典的な論文や論考が事前課題のリーディングとして課されている。たとえば、第一回のCSRを取り上げるパートでは、フリードマンによる「企業の社会的責任は利益最大化である」という論文、誤用すると利用者が死んでしまうヒーターの話、社会的責任とはを正面から分析する教科書、というのが対象であった。正直、割と何とか対応できるだろうと思っていただけに、毎回数十ページあるリーディングを全部こなすのは(他の授業との兼ね合いでは)肉体的に結構つらい。

ただ、秋学期にもあった組織心理学と被る所はあるものの、心理学と行動経済学を合わせた倫理の授業というのは、予想以上にタメになっている。以下は、「2.直観」授業の中で出てきた実験の一つ。下記の文面を読んだ後で、質問に答えるご自分を想定して頂きたい。ちょっと、エキセントリックな例であることはご容赦頂きたく。


ジュリーとマークは姉と弟である。二人は大学生で、夏休みを利用してフランスを一緒に旅行している。ある夜、二人はビーチの近くの小さな小屋に宿泊していた。二人はふと、ここで関係を持ったらとても楽しいのではないか、と思いつく。少なくとも、とても新鮮な経験になるのではないかと。
ジュリーは既にピルを服用しており、マークも安全のために避妊具を付けた。二人は関係を持ち、とても楽しい時間を過ごしたが、今後はもうしないことも誓い合った。そして、その晩に起きたことは二人の間での秘密となり、この秘密のお陰で二人はより親密な思いすら持つようになった。

原文は J.Haidt (2001) "The Emotional Dog and Its Rational Tail" (参照

ここで、教授からの呼びかけ入る。

「さて、二人がやったことが間違っていると思う人は手を挙げて」

見渡す限り、全員が挙手。

「じゃ、君、そう思う理由を言って下さい」

『えーと、ほとんどの社会の中で、近親者との関係は良くないこととされているから。』

「いや、この事実は二人だけの秘密なんです。規範とかはここでは問題じゃない」

『じゃあ、近親者との間に子どもができると、異常な遺伝を生みやすいからですっ!』

「いや、二人は完ぺきな避妊をしているんだ。それも問題じゃない」

「んーー、、、二人は後で傷つくかもしれないからだ」

『いいえ、二人はとても楽しい時間を過ごして、大事な秘密を持ったことでさらに仲良くなりました』

「いや、えっと、、、その、、、」

断固として論破されまい、自説に欠陥があってもそれを受け止めることなく「そういう意見もありますね」と流す米国人学生が、ちょっと教授に屈した瞬間である。

この問題、二人の自由が大事だという前提がある限り、基本的に何も悪いことはしていない。ただ、ほとんどの社会においてタブーとされていることを堂々とやっているのだから、生理的な嫌悪感を覚えるのも事実。面白いのは、基本的に「そこには何か理由があるはずだ」と脊髄反射的な判断が行われてから、実際に論拠を探しに行く脳の構造である。
この順番は、通常「何らかの理由付けがあって、我々は判断をしている」という事実を簡単にひっくり返すものだ。元の論文にも書かれている表現を用いれば、「感情的な犬と理性的な尻尾」という感じで、実は感情が先にあり、それを裏付けるべく理性が働いているのでは、ということになる。仕事の話を持ち出すまでも無く、あらゆる局面でこれは正しいことが多い。

授業は、このような現象もあるのだから、直観的判断に頼ることには少なからぬ危険があるし、ちゃんと理由があって判断をしているのか、気をつけましょう、と伝えて終わった。割と一般的なTake awayであるにも関わらず、全員がその内容を体感でき、中々効率的なものだと感心した。事前課題の参考文献にSunstein(Nudgeの共著者)のヒューリスティックに関する論文が挙げられていたこともあり、これらをしっかりと読めば、自らの行動を律せるようにもなるんだろうなあ、と思うくらいに。平たい言葉で言ってしまえば、誰にでも良く分かる授業だった。


ビジネススクールに来るエリートの中に、古典や哲学者の名前を引用できる人は驚くほど少ない。よく、欧米の知識エリートは云々、という言い方が国内ではなされるけれど、少なくともスタンフォードGSBは例外であり、むしろセンター試験で一通り触れている人の方が、この哲学という分野の知識は圧倒的に上なのではないか。無論、ちゃんとやっている人の習熟度は凄いのだろうけれど(参照)。
しかし、その状況を受けて開き直った上で、「使える倫理」を教える姿勢には、日本にも十分活かせるプラグマティズムを感じる。個人主義の中での倫理の大切さが、ちゃんとボトムラインとしての効果を持つように、何だか教育機関として万全の保険を与えているような印象を持った。同時に、ビジネススクールの中で、倫理も立派な売り物になるのだ、ということも体感した。


2010/02/22

ソーシャルメディアの扱われ方

シリコンバレーに来て以来、興味の湧いたものの一つは、ベタではあるが、ソーシャルメディアである。とくに、ソーシャルメディアの中での、FacebookとTwitterの扱われ方の格の違いを感じさせられることが何度もあった。

2社への評価は賛否両論。ビジネスモデルの評価で滅茶苦茶厳しい評価を行うことが多かったストラテジーの教授も、Facebookのモデルについては、今自分が知っているビジネスの中で最もポテンシャルを感じるもの、と言っていたり、片や、ウェブドメインの買収を行う卒業生は、あれは誇大に扱われ過ぎだ、と一蹴していたり。Twitterについては、FBほどの普及率はない(日常的な米国人との会話の中にもさほど出てこない)ものの、ユーザーの密着度と、必ずといっても言及される度合い、もう成長がピークアウトしたから興味がない、といった悲観論も含めて、ある程度の産業のポテンシャルに対する常識が共有されているのが面白い。

そういえば下記の、とある有名スタンフォードOBに関する動画の中でも言及があり、
http://nbcsports.msnbc.com/id/22825103/vp/35505777#35505777

「世間をお騒がせし、申し訳ありません」という謝罪はソーシャルメディアで行うのが効果的ではないか、と指摘されている。ブログやTweetで、メッセージを確実に、必要な量だけ届けられるという意味では、記者会見を打って、下手にリスクを晒すよりは良いと、こっちの人は考えるのかもしれない。


ソーシャルメディアは、今学期取っている授業の中では、Eコマースと、マーケティングの中で言及されることが多い。

Eコマースでは、FBをまだ取り上げていないので、新たにメッセージが出てくるのかもしれないけれど、基本的には、スタンフォードの戦略論の中で出てくる、DSIR(Demand Side Increasing Returns)の概念の中で、ネットワークが持つ価値とくっつけた議論がなされている。もはや、これも標準的な説明であるけれど、ユーザーが多ければ多いほど良いことや、他の派生的なビジネス機会、ネット上の広告宣伝の付加価値、といったことに紐付けて、その効果を検証する課題などが課されている。

マーケティングでは、もうちょっと「チャラい」アプローチが採らている。端的にいえば、とりあえずFBやTwitterやYoutubeも含めて、ウェブを使っている広告戦略がどんなもんか、素人的な意味を理解しましょうよ、という印象。
特に取り上げられたのは、(1)ドミノピザ、(2)Dove の二つのキャンペーン。

(1)ドミノピザ
Youtubeで「ドミノピザはまずいと思われてるけれど、実は色々R&Dをしていてかなり美味しいんだよ」というメッセージを流して、その反響を用いるキャンペーン。



このムービーに対する、クラスの反応は8割賛同、2割反対。賛同する側は、自分たちの立ち位置を良く分かっている、それにプロアクティブに対応しているのでまとも、という感想だった。
しかし、私は2割側。ドミノが別に(日本の宅配ピザと比べても)そう劣った水準にあるとも思えないし、ちょっと宅配込みで高いとは思うけど、ネガティブな理解を敢えてプッシュするもんじゃないだろう、と感じていた。

授業の中での、ソーシャルメディアを扱う際の注意点は、言葉は悪いが、とにかくどういう方向に炎上するのか、をちゃんとコントロールすること、であった。通常、コントロールするのは、ウェブの特性からして不可能にも捉えられるのだけれど、ある程度の常識や出す情報の方向性とかから、そう外すこともない、という印象を受けた。

(2)Doveのイメージ広告
Doveは、複数の商品を束ねたCMを作る戦略を採っているのだが、2002年頃から、日本人の感覚からすると、ちょっと変に思われるかもしれないCMを打ち始めている。それまでの「造られた美」から「個人の美を大事にしましょう」という方向に、かなり大規模なキャンペーンを打ち続けている。




この広告戦略の効果は非常に大きなものだったのだと、少なくともケースは指摘。
ただ、この方向性はちょっとエスカレートして、より過激なメッセージを送ることにもつながった。

オフィシャルな映像なのですが、後半きつい描写が入ってます。


ここまでやってしまうと、ちょっとそれはどうかと思う、という人がクラスの中でも多数派を占めるようになってしまう。「化粧品は、そこそこの夢を買うことも付加価値に含まれているのに、それを破壊してどうするの」というのが、その中心的な意見。
教授によるとこのCMの反響は、あまり芳しいものではなかったのだそうな。

その一つの分かりやすく、いかにもウェブ的な批判というのが、Doveと同じP&GブランドのAXEは、滅茶苦茶下世話なCMをやっているじゃないか、という点。



Doveへのダメージがどれくらいあったのかは分からないのだけれど、ウェブ上だと、一つの点を誇張して美点凝視してもらおう、とする戦略は絶対にうまくいかない、という点が、授業のKey Takeawayであった。

今学期の終わりころには、また異なる見方を持つことになるのかもしれないけれど、今の時点でソーシャルメディアに感じる、成功するためのテーマは、2つ。

(1)企業が全体として提供しているサービスのメッセージに、ブレがないこと。
(2)何らかの「この企業にしかこれはできない」と思わせるExcellenceが必要なこと。

ということである。どちらも、相対的にはスタートアップの企業に向いたアプローチであり、複合的、歴史的なコンテキストを持つ企業には、禁止的ではないが、不利に働く要素なのだと感じた。


(おまけ)

ちなみに、他のソーシャルメディア、たとえばLinkedinやSecond Lifeについては、あまり言及されることが少ない。Second Lifeについては、Eコマースのケースで取り上げられたものの、学生や教授の反応や感想をまとめてしまうと

Second Lifeは使いづらいし、住人はちょっときもち悪い

というものだった。
昨日、アカウントを作ってみて、一時間程度でどこまでできるか試してみたのだけど;

(1)無料で選べるアバターが少ない
(2)何だか色々顔とかいじれるぞ
(3)とりあえず着せ替えさせようとしたら、なんか全裸(白い靴下だけは着用、笑)になっていて困る
(4)辛うじてジーパンとシャツだけ着たけれど、髪の毛が取り戻せない
(5)髪の毛が同じく取り戻せなくなっているアバターを発見して、「困ったね」と会話を交わす。

というところで、とりあえず体験時間は終了。ものすごく時間を投資すればよいのだろうけれど、自分にはまず無理だと直観的に思えてしまった。ぜひ、一時間だけ、やってみることをお勧めします。