2011/06/26

卒業し、日本に戻りました

卒業し、さっそく新しい生活に入り、日本でばたばたしております。
(味気ない表現で恐縮です)

2年間のまとめ、というのはワンポストだけで言えるものでもないのですが、本当に良くわかったのは、唯一気にするべきは、Something that matters most to youを明確に生きることである、ということです。留学前も後もその部分だけは本当に変わらない。そして、2年間のかけがえのない体験は、それをフルにサポートし続ける永久機関になること、であると感じます。

いずれちゃんと投稿することを約束しつつ、とりあえずはご報告までにて。

2011/06/06

MBA生がやるガチ演劇の授業

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デボラ・グリュンフェルドといえば、結構名の知られている心理学者である。
彼女がもっとも有名なのは、権力(Power)を持ったときに、人はどのような過程で腐敗するのか、という領域での研究である(参照)。組織行動論の一コースとして教えられるActing with Powerは、彼女が現役の役者数名を教室に招き、しっかりとした演劇指導を施し、最終的にPowerを持つこと/持たないことはどんなことなのかを実感する授業である。

元来、MBA生は、おそらくどの学校でも目立ちたがり屋が多く、バカ騒ぎが好きな人種。GSB Show(参照)等の劇やらミュージカルやらは、まったく勉強する気ないだろ、というレベルの練習をやらかしている。そんなこともあって、授業自体もちょっと変なノリにならないかとか思っていたのだが、面白いことに、本物の役者の前ではかなり真面目に各人が取り組む授業になった。

カリキュラムは、普通の授業に比べればかなり実践主義だ。一学期の間、5分程度のシーンを二人のペアで演じきることが、一応の目標となっている。授業中は、呼吸、ウォームアップから感情移入、小道具使いから、発音に至るまで、ここまでやってくれるのか、という感じで演技の指導を受ける。他人の演技を見ている時間がかなり長いのだが、段々と演技の水準が上がり、迫力が増す成長カーブを見られるのは楽しい。

そして、肝心の「権力」に関する部分だが、これがまた、演技だと大袈裟にやることもあり、分かりやすい。基本的に、もし相手に対して高圧的な影響力を及ぼしたい、と思うときには、相手を無視して、低くゆっくり指示するように話し、相手の行く手と会話をさえぎり、基本的に言われていることを受けた会話はしない、というのがスタイルになる。私自身に与えられた役柄は、「19世紀北欧の高圧的な市長が弟を政治的に篭絡する」、というシーン(参照の4分半以降)。授業が終わるまでは絶対に本物の例を見ないように、といわれていたのだが、少なくともYoutube上のバージョンよりは、だいぶ高圧的に、怖い人を演じる結果となった。

同じ脚本であっても、相手を基本的に見下し、何も聞き入れない、というのをやるだけで、大分雰囲気が変わるものだ。一旦こういう雰囲気に没入できると、割とうまく立ち回れる方でもあるので、脚本を丸覚えしてからは、色々と楽しかった。そして同時に、案外皆が、「真面目にやれ」といわれるとうまくできない、という、結構シャイな側面が見られたのが面白かった。

演劇をしながら感じ、また教わったことは、コミュニケーションは常に明確に、ということだ。良い演技にはそれを構成する必須要素がいくつかあり、その最たるものは「ある場面において、演者は何を伝えたいのかが明確である」ということである。演劇であれば、一つのポーズ、一つ一つの言葉の裏に、どんな意図があるのか、ということにかなり時間をかけて練られている。実生活でも、相手が自分に対して理解がないこと、というのを前提としてみると、一件大袈裟に見えるプレゼンが計算されたものであるんだな、と思えることが、それ以来何度か起きている。

また、もう一つ大事だと思った学びは、人には色んな意味でエクスキュースが大事だ、ということ。演劇をしながらわかるのは、大人数を前に演技をするほうが、二人きりで練習をするよりも、没入がやりやすくなる、ということである。演技、というマインドセットに自分を置くことは、自分が不慣れなことをやりやすくすることでもある。自分の日ごろの慣習から切り離される、ということ自体が、よくある演劇をやる者の快感の源泉でもあるのだろう。少なくとも、自分にはそのように感じた。

ガチ演劇、というタイトルの通り、この授業を通じて得たものといえば、ガチ演技とは何か、という教訓である。ただ、よく考えると、演技、とまでは行かなくても、誰しも皆、人の期待に対してある程度の人格を被って生きているもの。心理学を学ぶには、かなり効率的なメソッドなのかも、と感じると共に、ちゃんとした演技のできる役者って、深い職業なんだなあ、と思った。


2011/06/05

Quora創業者の話を聞きながら思ったこと


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久しぶりのポストになるが、
Quora創業者の一人、ディアンジェロ氏の講演について。
http://www.quora.com/Adam-DAngelo






ディアンジェロ氏、元Facebook CTOで26歳という側面が強調されるけれど、会話の中に感じるストレートなロジックを求める頭の良さが印象に残った。


以下、Quoraについてのプレゼンより。

  • 今日のプレゼン内容は情報の質について。
  • まず、最初にいえること。Web is a Mess。今のグーグルサーチが返す情報は、本当にぐちゃぐちゃしている。グーグルサーチをするときのマインドセットと、ウィキペディアで編集された情報を行き来するときの集中力・心地よさを比較すればよくわかる。
  • ウェブでサーチすることは、別にアリだし、5分ほど検索すればそれなりの答えにたどり着ける。しかし、同じトピックについては、世界中でいろんな人が検索しているはずだ。全部あわせたら、かなりの人が、同じプロセスについて時間を浪費している。
  • ウェブが汚い理由は、現状のサーチがリンクをベースに作られていて、基本的にSEOを考えるなら、物量作戦でとにかく情報をウェブにあげて、自分のコンテンツにリンクさせることが勝ちパターンになっているからだ。
  • 今の世界では、QuantityはQualityに勝っている。
  • また、分散された形での情報共有という形態を今日のウェブでは達成するのは、極端に難しい。ほとんどのブログには、対話が存在していないので、読者とのつながりが薄い。
  • かなり前のことだが、インターネット黎明期には、いろんな学者がウェブサイトを作って、自分の論文へのリンクや、いろんな知識へのコンテキストを作っていた。けれど、こういうことをやるのはコンテンツを持っていて、かつ、ウェブサイトを作るという手間を惜しまない、ごく一部の人だ。
    • 我々がfacebookでやったことは、個人のプロフィールページを作るコストを相当低くしたことだ。いろんな人が情報を生産・消費するコストを劇的に減らすことができた。
  • Quoraでやりたいことは、これをより広い範囲の知識に拡大し、その効率性を改善すること。
  • 実名のユーザーが作るコンテンツ、というのは基本的にクオリティが高い。
  • 対照的に、Yahoo知恵袋的な情報の質は悪い。単にネット上にいるだけ、という人たちは概して賢くはない。
    • 知恵袋的なサービスは、質問行為に対してポイントを付与したりしているので、いらない情報を作り出しやすい。
    • バッジの付与とかは、情報の質を考えると本当に最悪の方法の一つ。
  • Quoraでは、まず、同じジャンルと思われる質問は一つにまとめて、一番良いものを一番上に持ってくる構造になっている。一番上で表彰されるので、良い答えを書く理由付けがある。
  • 質問項目は本当に多様
    • マンモスのクローンはいつ頃可能になるのか
    • 9/11テロの際に建物の中にいた人はどんな経験をしたのか
    • bit.lyはリビアのドメインだが、差し押さえられたらどうなるのか
    • マイクロソフトはイノベーションを止めたのか
    • といった質問に対して、その分野の第一人者、実際の経験者、社長、元社員等が実名で回答している。
  • 最終目標は、誰かが「知っている」情報について、誰もが知ることができる世界にすることだ。
その他

  • 基本的に情報の優劣は投票によって行っている。
  • 最初にユーザーを増やすためには、限定公開の形でバリューを作った。
  • 事業の最大の課題は、いかにスケールし続けられるか。ほかには、特には危惧していない。ウィキペディアに比べて、ロングテールの知識を対象としているので、あんまりライバルもいない気がしている。
  • 政治や個人攻撃等については、一定のガイドラインがある。こういうコミュニティには、問題行為を行わせない、政府のような存在が必要。
  • 最近は景気が良いので、いい人を安く採用することは難しい。基本的に、我々ファウンダー二人のほかに、友人二人を雇って仕事を始めた。エンジニアを口説くには、何か既に成功しそうなプロダクトがないと厳しい。我々の場合、あんまりお金を使いたくなかったので、ビジネス経験はないけど能力がありそうな学生を何人も雇っている。
  • 分散された情報、というのは、全体としては負けつつあるジャンルだと思っている。長期的には、中央に何かが集まったシステムの方が、それ以外よりも価値が大きくなるだろう。
  • 今手がけている技術的な領域としては、できるだけ答えに早くたどり着ける仕組みを作ることだけれど、強いプライオリティ、というわけでもない。





情報を持ってる人がえらい、というのは色んな産業・組織が依って立つヒエラルキーである。言い古されたことではあるが、ネットの持つ本質は、このヒエラルキーを破ることでもあり、その新たな加速ツールが出てきたな、という印象である。

現状のQuoraでは、テック業界中心の知識が驚くほど充実している。シリコンバレーの労働市場の流動性、そうそうオープンにしても真似はできない暗黙知、繰り返し答えることで生まれるレピュテーションへの期待感、集合知よりも一人の天才の価値、といった特性は、シリコンバレーの力学をそのまま体現しているような印象を受ける。

この流れは、「情報を囲い込む」ニーズの無いところまでは想像を超えるスピードで敷衍していくことだろう。一方で、極端な例が、外交機密であったり、インサイダー的な業界については、これはまた、ウィキリークスやマスメディアの領域であり続けるのだろう。わからないのは、この二つの間の分水嶺がどのあたりにあるのか。現状のQuoraの勢いが続くことを願うばかりである。

ちなみに、ビジネススクールの組織行動論の教授の中でも意見対立があるのが、このような情報の水平化に向けた長期トレンドを見越した上で、個人はどのようにリーダーシップを発揮するべきか、というテーマである。Touchy Feelyの授業創設に関わったBradford教授は、基本的には水平型のチーム組織じゃないと、今後の社会ではパフォーマンスは出せない、という強い持論を持っている。それに対して、例えば心理学の大物Gruendfeldは演劇の授業等でも、「理由無く高圧的に接する」「相手の行動に理由・余地を与えない」「会話をしないで、一方的に伝える」といったことはビジネスでは必要で、生きていくには現実的だ、ということを教えている。
ただ、この問い立ては、あまりに重要な問いの割に、かなり粗いものだという気がしている。ケースバイケースである上に、個人の資質というものもある。また、何がその勝負の「勝ち」を決するのか、という技術や条件次第でもある。大事なのは、誰がそれを持っているのかについて謙虚に考える頭と、一旦決したら鬼のように執行する、というところなので、まあ、そんなことは教わろうとせずに、実践せよ、ということなのだと感じている。