一人の経営の天才が亡くなられた。
心からのお悔やみを申し上げたい。
エクセルを使えないマシンはクソだ、と言っていた自分が、シリコンバレーという地を経ただけで、今やMBAと呼んだときに経営とは関係ない物を想起し、実際にそれを使ってこのポストを書いている。部屋の中に、音楽用のドックも含めたらiPhoneを充電できる機材が7個もあった。それだけでもすごいことなんだと、改めて思う。
ジョブス逝去の報を聞き、ビジネススクールの話題とかぶる一つのトピックを思い出した。
それはjPod教授のこと。
スタンフォードGSBに入学すると、最初の学期の間、一冊の教科書を用いた経営学の授業がある。Strategic Management、日本でも和訳が出ているこの教科書(参照、訳は石倉先生です。Mさん卒業したら返してください)をベースに、伝統的なケースベースの戦略論の授業の講義が行われる。
この教科書の共著者には、現GSB学長のサローナーと共に、ジョエル・ポドルニーの名前が連なっている。ポドルニー教授はこの教科書に携わった後、HBSで教壇に立ってから、イェール大学のビジネススクールに移り学長としてリーダーシップを取っていた。
(そういえば一度、Yaleのビジネススクールを受験して訪れたときに、教授にちょっとだけ挨拶したことがあった。受験生の立場なので、こちらはかしこまりまくりなのだが、小さなフレンドリーな校風の中で、在学生から親しみを込めてjPodと呼ばれていたのを覚えている)
さて、このポドルニー教授、そもそも三十代でビジネススクールの学長にもなっているのだが、順風満帆と言われたアカデミシャンとしてのキャリアから、2009年のはじめにアップルに転職している。正確には、Apple Universityの学長に就任しているので、転籍になるのだが、どうやらこの転籍、ジョブスの経営上の意思決定を洗いざらいデータとして蓄積し、アップルの後継となる経営幹部に伝承していくためのものとのこと。日本語では、こちらの記事に詳しい(参照)。この話を初めて聞いたとき、こう思ったものだ。当時から、相当病状が重かったとささやかれる中で、この組織はアップルのタージ・マハルのようなものになるんではないか、と。
この試みは、経営学という範疇の中では、少なくとも世俗的な関心が最も高いテーマなのではないだろうか。
ジョブス、もしくはアップルの功績自体は10年後にしか検証できないものなのかもしれないが、今の時点でこれだけの企業価値に、秘伝のタレがあるのだとすれば、それは死んでも味わってみたいと思うのが、アカデミシャンの性なのかもしれない。だけど、jPodの移籍からかれこれ約2年半、Apple U.で行われていることについて、何一つクレディブルなことを聞いたことが無い。jPodのtwitterアカウントも、なんというか差し障りない感じで、1月以降更新が無い(参照)、好奇心が募るばかりである。
個人的に、MBAや役員向けのエリート教育の中から、ジョブスのコピーを生むことができるか、と問われれば、そりゃ無理に決まってる、と断言できる。マネタイゼーションの発想、デザインのセンス、ビジョナリーとしての視野、どこかで一貫しており誰にも理解されている人間像、すべてを取っても、MBAに来る段階では養うには手遅れなところがある。そういえば、在学中イーコマースの授業で、もうありとあらゆるネット企業を分析してきたメンデルソン教授も、アップルみたいなエコシステムを「分析からの逆算で」作ることは不可能、みたいなことを言っていた気もする。
さらに、イノベーティブになりたいとか、自由な心でありたいとか、そういうモチベーションでApple Universityの最高の薫陶を受けたとしても、それは所詮応援団の中の、砂かぶり席にいるようなものである。良い一番を見せていただきました、ではすまされないので、この組織のことを考えると、結局それは、すでに相当なビジョナリーである人間に対して、案外普通の製造業にとっての、オペレーションとマーケティングを教えることなのかな、という気もする。ティム・クックは、おそらくそこら辺のオペレーションの教授よりも別次元の工程管理を肌で行っていることなのだろうし、今後はそういう知識の蓄積がなされていくのかな、と感じている(以上妄想おわり)
個人的にGSBは巧いなあ、と感じるのは、結局こういう事象については「自分が負けたくないことをがんばろう」、即ち、What matters most to youという、出願(参照)の時点で答えを出してしまうものに賭けようぜ、という筋道を最初から示していることだ。何を考えていても、やっぱりここに帰ってきてしまう。そうすると結局なのだが、純朴なコアを大人げなく守り抜くこと、が解になる。他人からみたら、Hungry and Foolishといわれることなんでしょうね。
敢えて一言付け加えるなら、そのFoolishであり続ける生き方を選んだ人には、与えられた課題に対するハイパフォーマーとなることでできるだけ邪魔されないようにする、というのが、MBA教育の付加価値なのではないでしょうか。
2011/10/09
2011/06/26
卒業し、日本に戻りました
卒業し、さっそく新しい生活に入り、日本でばたばたしております。
(味気ない表現で恐縮です)
2年間のまとめ、というのはワンポストだけで言えるものでもないのですが、本当に良くわかったのは、唯一気にするべきは、Something that matters most to youを明確に生きることである、ということです。留学前も後もその部分だけは本当に変わらない。そして、2年間のかけがえのない体験は、それをフルにサポートし続ける永久機関になること、であると感じます。
いずれちゃんと投稿することを約束しつつ、とりあえずはご報告までにて。
(味気ない表現で恐縮です)
2年間のまとめ、というのはワンポストだけで言えるものでもないのですが、本当に良くわかったのは、唯一気にするべきは、Something that matters most to youを明確に生きることである、ということです。留学前も後もその部分だけは本当に変わらない。そして、2年間のかけがえのない体験は、それをフルにサポートし続ける永久機関になること、であると感じます。
いずれちゃんと投稿することを約束しつつ、とりあえずはご報告までにて。
2011/06/06
MBA生がやるガチ演劇の授業
デボラ・グリュンフェルドといえば、結構名の知られている心理学者である。
彼女がもっとも有名なのは、権力(Power)を持ったときに、人はどのような過程で腐敗するのか、という領域での研究である(参照)。組織行動論の一コースとして教えられるActing with Powerは、彼女が現役の役者数名を教室に招き、しっかりとした演劇指導を施し、最終的にPowerを持つこと/持たないことはどんなことなのかを実感する授業である。
元来、MBA生は、おそらくどの学校でも目立ちたがり屋が多く、バカ騒ぎが好きな人種。GSB Show(参照)等の劇やらミュージカルやらは、まったく勉強する気ないだろ、というレベルの練習をやらかしている。そんなこともあって、授業自体もちょっと変なノリにならないかとか思っていたのだが、面白いことに、本物の役者の前ではかなり真面目に各人が取り組む授業になった。
カリキュラムは、普通の授業に比べればかなり実践主義だ。一学期の間、5分程度のシーンを二人のペアで演じきることが、一応の目標となっている。授業中は、呼吸、ウォームアップから感情移入、小道具使いから、発音に至るまで、ここまでやってくれるのか、という感じで演技の指導を受ける。他人の演技を見ている時間がかなり長いのだが、段々と演技の水準が上がり、迫力が増す成長カーブを見られるのは楽しい。
そして、肝心の「権力」に関する部分だが、これがまた、演技だと大袈裟にやることもあり、分かりやすい。基本的に、もし相手に対して高圧的な影響力を及ぼしたい、と思うときには、相手を無視して、低くゆっくり指示するように話し、相手の行く手と会話をさえぎり、基本的に言われていることを受けた会話はしない、というのがスタイルになる。私自身に与えられた役柄は、「19世紀北欧の高圧的な市長が弟を政治的に篭絡する」、というシーン(参照の4分半以降)。授業が終わるまでは絶対に本物の例を見ないように、といわれていたのだが、少なくともYoutube上のバージョンよりは、だいぶ高圧的に、怖い人を演じる結果となった。
同じ脚本であっても、相手を基本的に見下し、何も聞き入れない、というのをやるだけで、大分雰囲気が変わるものだ。一旦こういう雰囲気に没入できると、割とうまく立ち回れる方でもあるので、脚本を丸覚えしてからは、色々と楽しかった。そして同時に、案外皆が、「真面目にやれ」といわれるとうまくできない、という、結構シャイな側面が見られたのが面白かった。
演劇をしながら感じ、また教わったことは、コミュニケーションは常に明確に、ということだ。良い演技にはそれを構成する必須要素がいくつかあり、その最たるものは「ある場面において、演者は何を伝えたいのかが明確である」ということである。演劇であれば、一つのポーズ、一つ一つの言葉の裏に、どんな意図があるのか、ということにかなり時間をかけて練られている。実生活でも、相手が自分に対して理解がないこと、というのを前提としてみると、一件大袈裟に見えるプレゼンが計算されたものであるんだな、と思えることが、それ以来何度か起きている。
また、もう一つ大事だと思った学びは、人には色んな意味でエクスキュースが大事だ、ということ。演劇をしながらわかるのは、大人数を前に演技をするほうが、二人きりで練習をするよりも、没入がやりやすくなる、ということである。演技、というマインドセットに自分を置くことは、自分が不慣れなことをやりやすくすることでもある。自分の日ごろの慣習から切り離される、ということ自体が、よくある演劇をやる者の快感の源泉でもあるのだろう。少なくとも、自分にはそのように感じた。
ガチ演劇、というタイトルの通り、この授業を通じて得たものといえば、ガチ演技とは何か、という教訓である。ただ、よく考えると、演技、とまでは行かなくても、誰しも皆、人の期待に対してある程度の人格を被って生きているもの。心理学を学ぶには、かなり効率的なメソッドなのかも、と感じると共に、ちゃんとした演技のできる役者って、深い職業なんだなあ、と思った。
2011/06/05
Quora創業者の話を聞きながら思ったこと
久しぶりのポストになるが、
Quora創業者の一人、ディアンジェロ氏の講演について。
http://www.quora.com/Adam-DAngelo
ディアンジェロ氏、元Facebook CTOで26歳という側面が強調されるけれど、会話の中に感じるストレートなロジックを求める頭の良さが印象に残った。
以下、Quoraについてのプレゼンより。
- 今日のプレゼン内容は情報の質について。
- まず、最初にいえること。Web is a Mess。今のグーグルサーチが返す情報は、本当にぐちゃぐちゃしている。グーグルサーチをするときのマインドセットと、ウィキペディアで編集された情報を行き来するときの集中力・心地よさを比較すればよくわかる。
- ウェブでサーチすることは、別にアリだし、5分ほど検索すればそれなりの答えにたどり着ける。しかし、同じトピックについては、世界中でいろんな人が検索しているはずだ。全部あわせたら、かなりの人が、同じプロセスについて時間を浪費している。
- ウェブが汚い理由は、現状のサーチがリンクをベースに作られていて、基本的にSEOを考えるなら、物量作戦でとにかく情報をウェブにあげて、自分のコンテンツにリンクさせることが勝ちパターンになっているからだ。
- 今の世界では、QuantityはQualityに勝っている。
- また、分散された形での情報共有という形態を今日のウェブでは達成するのは、極端に難しい。ほとんどのブログには、対話が存在していないので、読者とのつながりが薄い。
- かなり前のことだが、インターネット黎明期には、いろんな学者がウェブサイトを作って、自分の論文へのリンクや、いろんな知識へのコンテキストを作っていた。けれど、こういうことをやるのはコンテンツを持っていて、かつ、ウェブサイトを作るという手間を惜しまない、ごく一部の人だ。
- 我々がfacebookでやったことは、個人のプロフィールページを作るコストを相当低くしたことだ。いろんな人が情報を生産・消費するコストを劇的に減らすことができた。
- Quoraでやりたいことは、これをより広い範囲の知識に拡大し、その効率性を改善すること。
- 実名のユーザーが作るコンテンツ、というのは基本的にクオリティが高い。
- 対照的に、Yahoo知恵袋的な情報の質は悪い。単にネット上にいるだけ、という人たちは概して賢くはない。
- 知恵袋的なサービスは、質問行為に対してポイントを付与したりしているので、いらない情報を作り出しやすい。
- バッジの付与とかは、情報の質を考えると本当に最悪の方法の一つ。
- Quoraでは、まず、同じジャンルと思われる質問は一つにまとめて、一番良いものを一番上に持ってくる構造になっている。一番上で表彰されるので、良い答えを書く理由付けがある。
- 質問項目は本当に多様
- マンモスのクローンはいつ頃可能になるのか
- 9/11テロの際に建物の中にいた人はどんな経験をしたのか
- bit.lyはリビアのドメインだが、差し押さえられたらどうなるのか
- マイクロソフトはイノベーションを止めたのか
- といった質問に対して、その分野の第一人者、実際の経験者、社長、元社員等が実名で回答している。
- 最終目標は、誰かが「知っている」情報について、誰もが知ることができる世界にすることだ。
- 基本的に情報の優劣は投票によって行っている。
- 最初にユーザーを増やすためには、限定公開の形でバリューを作った。
- 事業の最大の課題は、いかにスケールし続けられるか。ほかには、特には危惧していない。ウィキペディアに比べて、ロングテールの知識を対象としているので、あんまりライバルもいない気がしている。
- 政治や個人攻撃等については、一定のガイドラインがある。こういうコミュニティには、問題行為を行わせない、政府のような存在が必要。
- 最近は景気が良いので、いい人を安く採用することは難しい。基本的に、我々ファウンダー二人のほかに、友人二人を雇って仕事を始めた。エンジニアを口説くには、何か既に成功しそうなプロダクトがないと厳しい。我々の場合、あんまりお金を使いたくなかったので、ビジネス経験はないけど能力がありそうな学生を何人も雇っている。
- 分散された情報、というのは、全体としては負けつつあるジャンルだと思っている。長期的には、中央に何かが集まったシステムの方が、それ以外よりも価値が大きくなるだろう。
- 今手がけている技術的な領域としては、できるだけ答えに早くたどり着ける仕組みを作ることだけれど、強いプライオリティ、というわけでもない。
情報を持ってる人がえらい、というのは色んな産業・組織が依って立つヒエラルキーである。言い古されたことではあるが、ネットの持つ本質は、このヒエラルキーを破ることでもあり、その新たな加速ツールが出てきたな、という印象である。
現状のQuoraでは、テック業界中心の知識が驚くほど充実している。シリコンバレーの労働市場の流動性、そうそうオープンにしても真似はできない暗黙知、繰り返し答えることで生まれるレピュテーションへの期待感、集合知よりも一人の天才の価値、といった特性は、シリコンバレーの力学をそのまま体現しているような印象を受ける。
この流れは、「情報を囲い込む」ニーズの無いところまでは想像を超えるスピードで敷衍していくことだろう。一方で、極端な例が、外交機密であったり、インサイダー的な業界については、これはまた、ウィキリークスやマスメディアの領域であり続けるのだろう。わからないのは、この二つの間の分水嶺がどのあたりにあるのか。現状のQuoraの勢いが続くことを願うばかりである。
ちなみに、ビジネススクールの組織行動論の教授の中でも意見対立があるのが、このような情報の水平化に向けた長期トレンドを見越した上で、個人はどのようにリーダーシップを発揮するべきか、というテーマである。Touchy Feelyの授業創設に関わったBradford教授は、基本的には水平型のチーム組織じゃないと、今後の社会ではパフォーマンスは出せない、という強い持論を持っている。それに対して、例えば心理学の大物Gruendfeldは演劇の授業等でも、「理由無く高圧的に接する」「相手の行動に理由・余地を与えない」「会話をしないで、一方的に伝える」といったことはビジネスでは必要で、生きていくには現実的だ、ということを教えている。
ただ、この問い立ては、あまりに重要な問いの割に、かなり粗いものだという気がしている。ケースバイケースである上に、個人の資質というものもある。また、何がその勝負の「勝ち」を決するのか、という技術や条件次第でもある。大事なのは、誰がそれを持っているのかについて謙虚に考える頭と、一旦決したら鬼のように執行する、というところなので、まあ、そんなことは教わろうとせずに、実践せよ、ということなのだと感じている。
2011/04/13
2011/03/10
TALK
このほど、TALKと呼ばれる名物イベントで喋ってきた。
このGSBイベント、毎週一人/二人の学生が40-50分程度、自らの過去や未来図を語るというもの。1年生が喋るイベントでは、独身寮の集会部屋がすし詰めになる形で行われる。2年生の場合は、少し離れた学生のシェアハウスに40-50人が集まって、もう少し余裕がある空間で話を聞く形を取る。昨日は、期末のテスト/レポート期間だというのに、同じくらいの学生数が来てくれた。感謝感激である。
基本的にこのイベントで話されることはプライベートそのものだ。暴れた内容だったり、悲しい話であったり、延々とコメディ・ショーのような話を展開する人もいるし、とにかく多様である。僕はこういうセッティングで話をするときに、割とくだけた形で、とにかくウケを狙いでやることが多い。ただ、今回はしっかりと重い話をしたかったので、その構成は取らなかった。そのため、うまく伝わるものかどうか、かなり緊張していた。
そして本番。
ネタ重視のオープニングを使いつつも、その後は、ピシャリと静まり返るくらいに重い話をした。その間、爆笑と共に、息を呑むような静けさの観衆とのやりとりがあった。何かを大人数を相手に喋ること自体、それなりの満足があるというものだが、それ以上にコミュニティと一体化する何かを感じた。こっちの人の爆笑は、本当に気持ちがいい(別に日本の場合もそうなのだけど、何というか移入度が違う)。同時に、悲嘆にくれたリアクションの中にも、明確なサポートが感じられる。そんな暖かさに励まされながら、中々オープンにはしないことを知ってもらった、というプロセス自体に輝かしい感情を覚える。1.5年前には想像だにしなかった、その場で感情のバランスからウケまでを考えて喋る、というベタな英語力の向上に、我ながら人は変わるものなのだと思った次第。あっという間に40分の時間が終わり、拍手の中で長友よろしくお辞儀をした。
このように、お互いを暖かく包む文化に触れるにつけ、GSBというすばらしいコミュニティに身を置くことができてよかったと感じる。こっちに来て2年目にもなると、数あるイベントの中でも、個々人の資質やメッセージが分かる人イベントを重視するようになるが、多少のお世辞はあったにせよ、「信じられないくらい良かった」、みたいなフィードバックをもらう中で、コミュニティからもらった沢山の贈り物のうち、少しだけ還元することができたような気がした。
このGSBイベント、毎週一人/二人の学生が40-50分程度、自らの過去や未来図を語るというもの。1年生が喋るイベントでは、独身寮の集会部屋がすし詰めになる形で行われる。2年生の場合は、少し離れた学生のシェアハウスに40-50人が集まって、もう少し余裕がある空間で話を聞く形を取る。昨日は、期末のテスト/レポート期間だというのに、同じくらいの学生数が来てくれた。感謝感激である。
基本的にこのイベントで話されることはプライベートそのものだ。暴れた内容だったり、悲しい話であったり、延々とコメディ・ショーのような話を展開する人もいるし、とにかく多様である。僕はこういうセッティングで話をするときに、割とくだけた形で、とにかくウケを狙いでやることが多い。ただ、今回はしっかりと重い話をしたかったので、その構成は取らなかった。そのため、うまく伝わるものかどうか、かなり緊張していた。
そして本番。
ネタ重視のオープニングを使いつつも、その後は、ピシャリと静まり返るくらいに重い話をした。その間、爆笑と共に、息を呑むような静けさの観衆とのやりとりがあった。何かを大人数を相手に喋ること自体、それなりの満足があるというものだが、それ以上にコミュニティと一体化する何かを感じた。こっちの人の爆笑は、本当に気持ちがいい(別に日本の場合もそうなのだけど、何というか移入度が違う)。同時に、悲嘆にくれたリアクションの中にも、明確なサポートが感じられる。そんな暖かさに励まされながら、中々オープンにはしないことを知ってもらった、というプロセス自体に輝かしい感情を覚える。1.5年前には想像だにしなかった、その場で感情のバランスからウケまでを考えて喋る、というベタな英語力の向上に、我ながら人は変わるものなのだと思った次第。あっという間に40分の時間が終わり、拍手の中で長友よろしくお辞儀をした。
このように、お互いを暖かく包む文化に触れるにつけ、GSBというすばらしいコミュニティに身を置くことができてよかったと感じる。こっちに来て2年目にもなると、数あるイベントの中でも、個々人の資質やメッセージが分かる人イベントを重視するようになるが、多少のお世辞はあったにせよ、「信じられないくらい良かった」、みたいなフィードバックをもらう中で、コミュニティからもらった沢山の贈り物のうち、少しだけ還元することができたような気がした。
2011/02/27
フリードマンの孫と話したこと
かのミルトン・フリードマンの孫である、パトリ・フリードマンと話し込む機会に恵まれた。
彼は2008年より、Seasteading Institute(参照)という、公海上に新しい国家を作るプロジェクトを推進している。前職は、驚くべきことにグーグルのエンジニアであった。同財団のドナーは例のピーター・シエル。リバタリアン資産家のぶっとんだ夢想を、リバタリアンの神様の子孫が叶えるという試みが平然と進められている。シエルの授業で彼が1時間ほどのゲスト講義をやった日の夜、シエルの邸宅で行われた小規模パーティーにて、長いこと話し込む機会があったのだった。
パトリ・フリードマンの発想の根幹には、国家や民主主義には競争が必要であり、革命以外の形で中から変えることは難しい、という強い信念がある。国家には多様なスタイルがあるはずだが、例えば小さい規模で国家のモデルをいくつも実験・競争させるといったことは、現実には行われていない。ソビエトが失敗したときは、その過程でものすごい数の人たちが殺されたり鬱になったりしたけど、あれは本当は100人の国家であれば数人が死ぬだけでよかったはずだ、というもの。
経済学の一領域である公共選択論にも言及していた。この学問体系の中では、理想的な政府の設計者が色々と制度を変えられることが前提されているが、その想定はあまりにフィクションに近く、個人にも国家の選択の自由などないではないか、という点である。だから、国にはもっと多様な選択肢があるべきだ、と。
ロジカルには正しい。正しすぎる。そして、誰もが妄想して諦めることなのかもしれない。その解決策はある意味危険だし、暗殺のリスクだって出てくる。国を作る者には、渡ってきた橋(育ってきた国)を燃やすくらいの覚悟が必要というもの。彼も授業で言っていたのだが、世界に失うものがある人には向いていないようなアントレプレナーシップ、なのだと。
ただし、リバタリアンのジェダイである彼には、この夢を叶えることの方が大事なのだそうだ。ハイテンションでキャピキャピ話す彼を見ていると、何というか「大うつけ者」という称号がふさわしく感じられてくる。凄い。オーラというよりも、若干の狂気すら感じる。
だんだんと、僕のリサーチャー魂にも火が点く。
好奇心に任せて、ありとあらゆることを聞いてみた。
Q:国家、への参入コストっていくら?
まず、土地。これは地上の世界では獲得することはできない。だから、海上が我々のフィールドになった。カジノのクルーズ船などが良い例だ。彼らは、国籍的にはどこにも属さない扱いを受けている。一番安い、サステイナブルな大型船は15-20百万ドルもあれば作れる。
Q:自分で国を作るの?
今はまだ構想中で、様々なプロジェクトを募集している段階。既に候補者には結構な数がいて、今度ホンジュラスで起「国」家サミットをやる予定。
ほかにも、海洋住宅に関する懸賞つきプロジェクトなどを主催している。自分は、最初は一連の制度の調整に注力しようと思っているけど、数十個の参入者が出てきた暁には、ぜひ、自分でも一つやりたい。
Q:侵略等に対する安全保障の問題はどうやって解決するの?
おそらく、国家というステータスを獲得できた際には、米国との間で安全保障条約を結ぶのが良いのだろう。核兵器の開発は今は(笑)考えていないし、麻薬の輸出だってたぶんやらない。
Q:国家としてのビジネスモデルはどう考えるのか?
世間ではよく、国家を非営利のものとして考えることが多い。だが、本当は営利機関として考えた方が適切な場合もある。
現実的だと考えているのは病院ビジネスだ。クルーズ船の上に病院を置く。そして、例えばサンディエゴ近海に停泊して、インド人の医師を雇って治療を行ったりすれば良い。同様にニューヨークの近海に、クルーズ船病院をもう一つ作って、共和国的な位置づけにすればよいと思っている。米国内の制度の訴訟コスト等を考えれば、医療コストが相当に下げられるので、それだけでも大きな収入源にはなるはずだ。
Q:タックス・ヘイブンはビジネスモデルにはなるの?
ケイマンやバミューダ等、世界には沢山のタックス・ヘイブンが既にあって、それと競合することは難しい。新規参入者に、タックス・ヘイブンとしての競争優位はないだろうし、いかんせん資本は最も速く世界を移動できる。それに対して、例えば病人などは、そんなには速く移動できない。
Q:これだけ多くの課題をどうやって解決していくの?
漸進主義しかないと思っている。多分正しい民主主義の形なんてないだろうから、やりながら考えるしかない。普通のベンチャーと一緒。
Q:尊敬している政治家って、いる?
今のSeasteadingの発想のモデルは、シンガポール。だから、リー・クワンユーが自分の中では熱い。彼の伝記の新バージョンを、また買っちゃったよ。
そして、話題は日本のマクロ環境について、に必然的にシフトしていった。
1)日本はなんで高齢化が見えていたのに30年近く対応してこなかったのか
2)債務レベルが対GDP200%になっても何故平気でいられるのか
3)なんで賦課方式の公的な年金・医療制度が、今の日本で成立するのか
等々。
僕は、これらの質問に対して、考えていることを素直に答えた。
話をしつつ、不思議な感慨に囚われた。彼の先祖のDNAというか、どうしてもミルトンの幻影と会話をしているような気がしてならなかった。
僕が、市場にかかわる仕事をするようになった一つのきっかけは、ほかでもない「資本主義と自由」があったからである。その中で繰り返し述べられる一つの純粋な思考回路に照らして、自分が日本の現状についての弁明をしているような気分になった。
現存するどんな国家であっても、リバタリアンのロジックに対しては、ある種の弁明を強いられる。日本には、その理由付けがあるのか、過去の輝かしい成長の実績は弁明をしない理由になりえるのか。初対面なのに熱心に関心を示してくれる彼の眼を見ながら、そんなことを考えていた。
スタンフォードのフーバー研究所には、過去から多様な経済学の偉人(日本人を含めて)が在籍してきた。シリコンバレーの空気を日夜吸収してきた中で、ふと、こうしたリーダーたちの根幹に佇む自由主義の存在と、果たして同じくらい奥深い何かが日本のリーダーにはあるのだろうかという怖い疑問を、感じた一夜だった。
2011/02/20
フラット化した世界でも、国境の壁は高い
3月下旬のジャパン・トリップに向けての作業が慌しくなってきた。
ミーティング先は、観光をする余裕がないくらいに埋まり、そうそうたる人たちに会えそうなので楽しみな限り。
ただ、それ以前の渡航ビザの手続きで、かなり長い時間を準備や調整に費やしている。
日本への渡航ビザの手配を行うのは初めてだ。
ひょっとすると、こんな簡単な手段があるよ、というのもあるのかもしれないのだが、(少なくとも私にとっては)難易度が高い。
まず、外務省のビザに関するウェブサイトを見てみると、ビザを必要としない国の一覧がわかる。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/visa/index.html
欧州や米国大陸の多くの国がカバーされており、先進国といえる国では、だいたい3ヶ月以内の渡航であればビザが免除されていることが分かる。
ただ、上記は主に先進国の話。中国、ロシア、インド、ブラジルは含まれていない。BRICsは、今後の経済成長の主役ではあるのだが、こういった国は入っていない(*1)。
ビジネススクールには、BRICsの学生も多く(学校が意識的に多くしている面もある)、前述のとおり我々のトリップ参加者にも何名か、ビザが必要な学生がいる。その中でも米国のグリーンカードを持っていない学生への要求は、結構大変なものだ。グリーンカードを有さないロシア人の学生の場合、パスポートのほかに求められる資料として、以下、がある;
- 日本での受け入れ人が記入する保証書・招聘書
- 招聘人の所属する企業の登記謄本もしくは(上場企業なら)四季報のコピー等。個人の場合は、納税証明書
- 「日本語」で書かれた旅程表
- 過去3ヶ月の銀行預金残高を示す書類
- 修学旅行を学校が主催していることを示すレター(訪問先や保証人情報込み)
- 米国の入国関連書類(ビザ、I-94、I-20)
- 申請用紙を二通
- 写真二葉
受け入れ人にも、何らの招聘を行う理由が必要で、赤の他人、というわけにはいかない。日本語で書かれた旅程表も、必要な人数分を作っていて思うのだが、日本側の協力者にも割と負担がかかる作業になる。
平たく言うと、日本に縁もゆかりもないけど、関心がある成長市場の人たちが、気安く日本には来れないのだ。国境を越えること、の意味が単純にビジネスや観光という枠組みで割り切れないことは重々承知だが、たとえば
- ふらっと観光で来て貰って、日本を好きになってもらう
- 投資家として招いて、方向感を持ってもらった上で、日本の資産を買ってもらったりとか、工場を見てもらった上で新興国市場での提携を打診してもらう
20年ほど前、家族旅行でフランスからスイスへ向かうバスに乗ったことがあった。途中、国境に差し掛かると、バスの中に検査官が乗り込んできて、前方の座席から、入念に一人ひとりのパスポートのチェックが行われていった。検札という感じではなく、かなりじっくりと、声を荒げながら検査が進む。その間、約15分ほど。
そして、最後部の座席に座っていた我々が4冊のパスポートを差し出した瞬間、検査官の表情が柔和なものへと変わる。ああ、日本人は別にいいよ、Welcome to Switzerlandと中身も確認せず、彼はバスの入り口の方へと引き返していった。
ロシア人の友人と話しつつ、こんな経験が脳裏を過ぎる。一連の手続きをしながら、彼らに「面倒な手続きが多くてごめんね」と伝えると、『いや、もう慣れっこですよ。僕がロシア人に生まれた責任みたいなもんだから(笑)』と言われた。自分は、生まれながらにして、世界で一番くらいに恵まれたパスポートを持てる立場。頭では分かっているけど、現実に接しないと感じ得ないことだ。
蛇足的にだが、
日本に、観光立国・投資立国の側面を増やすとするならば、こういった手間隙をかけてでも、来たい、見たい、感じてみたい、と思われるだけのソフトパワーをアピールすることが必要だ。個人的に、これは実力の問題というよりも、広報や見せ方の問題なのだと思っているし、もうちょっとうまくやる方法はあるよね、という気もしている。インドなんか、これだけ見て行くこと決めたら、だいぶ痛い目遭うよ、という位にかっこいいCM流しているんだし。日本も外国人の映画監督とか作って、超ナショナリスティックな観光映像とか作ってみればいいのにな。Yokosoキャンペーンは、ちょっと伝統系に寄り過ぎている気がする。
(*1)
日本語のページと
http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/visa/index.html
英文のページのフォーマットが違うのが少し気になったり(中国のボタンがない)、
http://www.mofa.go.jp/j_info/visit/visa/index.html
必要な書類も、ケースバイケースなので、海外の領事館に電話して問い合わせることが必須だったりと、逆の立場で考えたら、中々大変なのです。
2011/01/31
日本の財政と、海外留学について
(加筆・修正しました)
日本国債の格下げを受けて、日本国内では財政のサステイナビリティの議論が再燃している。
今学期履修しているDuffie教授(*1)の言葉を借りるまでもないのだが、格付け会社の判断というのは、多分に事後的に行われるものである。正直なところ、それを見て、いまさら何か新しいことが起きたかのように考えるのは間違っているし、もっと日ごろから、そこそこ事情通のMBA学生なら誰でも知っている日本の債務問題については、真正面からの議論が行われるべきだと思う。
この話題、お花畑展開的には、今から経済に大きなインパクトを与えることなく、歳出を上回る歳入を確保し(もしくは経済成長により)、債務対GDPの比率を下げていくことが、本当の大筋になるはずなのだが、今の世の中でそれをしっかりと示せている人は、たぶんいない。なので、将来的には、昔から言われているような長期金利の上昇と、結果としての悪性インフレによって、解決が図られる、というのが、もはや平均的な見方なのではないだろうか。
インフレが起きる過程では、日本円は下落せざるを得ない。たとえば、債務対GDPを半分にするためには、物価は2倍に、円ドルレートは今の2倍になる必要がある(これでも落ち着いたケース)。そうすると、海外の大学院に通うための値段は、今から見ると2倍になる。あと、インフレが急速に進む中では、値上げのペースが物によって異なってくる。日ごろ使うもの(分かりやすい例が、トイレットペーパー)についてはすぐに値段が上がる一方、例えばパチ物のバッグとかは、そうは値段を上げられないだろう。実は、同じことは人材についてもあてはまるので、利用価値の高い社員と低い社員で、給料がだいぶ異なってくる可能性だってある(一社内では横並びかもしれないけど、会社間ではたくさん差が出てくるだろう)
1)現在留学中の人たち
まず、日本から円建てで定額の送金を得ている人たち(奨学金の類に多い)は即座に困ることになる。大急ぎで、こちらでの生活費を補う手段を探す必要が出てくるだろう。奨学金の財団の中でも、体力があるところは情勢を見て金額を増やしてくれるかもしれないが、すぐにその決断が行われるかはわからない。場合によっては、困っている修士生に対して、地域の日本人会等でカンパを募るようなこともあるのかもしれない。
ただし、Ph.Dを取りに来ている学生の場合、2年目からはTAやRA、フェローシップ等の名目で生活費や授業料の免除、といった形で生活費の心配は少なくなることが多い。この立場にいる人たちにとっては、さほど大きな心配はなく、むしろ後述する理由により「留学しててよかった」という結果が訪れる可能性も高い。
MBA学生(私費留学)の場合
大学からの授業料の免除等の恩恵に与ることはあまりない。したがって、こちらでの授業料の借金がドル建てで行われる以上、日本に帰って円建てのお給料が支払われる会社で働くと、返すのにかかる期間が(2倍とはならないだろうけど)当分は長くなるかもしれない。これは、その業界の賃金構造や、物価に連動してどれくらい賃金上昇が行われるのかにもよるのだけど、目先は結構苦しくなることになるだろう。
一方、海外で働く気満々の場合は、この事態はその方向性を決める最後の一押しとすらなりうる。日本国内の経済が混乱し、賃金もさほどは早く対応してこない中で、ドルやアジアの通貨等で働けば、もともと発生している借金に対しては、ある程度想定どおり返済をすることが可能になる。
2)留学し終わって、日本国内でドル建ての債務を抱えている人たち
結論から言うと、一番大きな被害を受けることになるのかもしれない。日本で円建ての給料をもらい、ドル建てで返済をしている人たち。単純に、円ベースで見た借金の額が増えることになる。もちろん、海外で職を見つけられるならば別の話ではあるが、学生のジョブサーチに比べれば選択肢は格段に少ないのは事実である。なので、とりあえず円がかなり強い今のうちに、できるだけ早期の返済をお勧めするほかない…
3)これから留学しようとしている人たち
本記事で一番触れたいのは、この層について。
実は、インフレが来つつも、国内の教育費や賃金の調整がゆっくりになると想定される中では、下記の変化があると思われる。
*1 GSBではあまり多くは無い金融市場そのものを扱うDebt Marketsを担当する名物教授。ただし、彼自身がムーディーズの取締役をかねているので、上記は業界的水準では常識だが、一般的には利益相反も含んだ発言といえる。
*2 スタンフォードの場合なら、多くのケースでMBAの留学費用は大学経由でCo-signerなしで借りることができる(参照)。Ph.D志向であっても、頭脳の自信さえあれば、これも奨学金等を駆使して、なんとしてでも一年間食いつなぐ手段は確保してくるだろう。研究者の場合、ポストも予算も限られた日本国内の研究環境に比べれば、最終的に競争に負けるリスクを取ってでも、こちらに来る理由は多い。
なお、研究者向け海外留学については、ぜひぜひ米国大学院学生会(リンク)へ
日本国債の格下げを受けて、日本国内では財政のサステイナビリティの議論が再燃している。
今学期履修しているDuffie教授(*1)の言葉を借りるまでもないのだが、格付け会社の判断というのは、多分に事後的に行われるものである。正直なところ、それを見て、いまさら何か新しいことが起きたかのように考えるのは間違っているし、もっと日ごろから、そこそこ事情通のMBA学生なら誰でも知っている日本の債務問題については、真正面からの議論が行われるべきだと思う。
この話題、お花畑展開的には、今から経済に大きなインパクトを与えることなく、歳出を上回る歳入を確保し(もしくは経済成長により)、債務対GDPの比率を下げていくことが、本当の大筋になるはずなのだが、今の世の中でそれをしっかりと示せている人は、たぶんいない。なので、将来的には、昔から言われているような長期金利の上昇と、結果としての悪性インフレによって、解決が図られる、というのが、もはや平均的な見方なのではないだろうか。
インフレが起きる過程では、日本円は下落せざるを得ない。たとえば、債務対GDPを半分にするためには、物価は2倍に、円ドルレートは今の2倍になる必要がある(これでも落ち着いたケース)。そうすると、海外の大学院に通うための値段は、今から見ると2倍になる。あと、インフレが急速に進む中では、値上げのペースが物によって異なってくる。日ごろ使うもの(分かりやすい例が、トイレットペーパー)についてはすぐに値段が上がる一方、例えばパチ物のバッグとかは、そうは値段を上げられないだろう。実は、同じことは人材についてもあてはまるので、利用価値の高い社員と低い社員で、給料がだいぶ異なってくる可能性だってある(一社内では横並びかもしれないけど、会社間ではたくさん差が出てくるだろう)
さて、上述の展開を踏まえたうえで、日本にとって、海外留学が持つ意味について考えてみたい。
1)現在留学中の人たち
まず、日本から円建てで定額の送金を得ている人たち(奨学金の類に多い)は即座に困ることになる。大急ぎで、こちらでの生活費を補う手段を探す必要が出てくるだろう。奨学金の財団の中でも、体力があるところは情勢を見て金額を増やしてくれるかもしれないが、すぐにその決断が行われるかはわからない。場合によっては、困っている修士生に対して、地域の日本人会等でカンパを募るようなこともあるのかもしれない。
ただし、Ph.Dを取りに来ている学生の場合、2年目からはTAやRA、フェローシップ等の名目で生活費や授業料の免除、といった形で生活費の心配は少なくなることが多い。この立場にいる人たちにとっては、さほど大きな心配はなく、むしろ後述する理由により「留学しててよかった」という結果が訪れる可能性も高い。
MBA学生(私費留学)の場合
大学からの授業料の免除等の恩恵に与ることはあまりない。したがって、こちらでの授業料の借金がドル建てで行われる以上、日本に帰って円建てのお給料が支払われる会社で働くと、返すのにかかる期間が(2倍とはならないだろうけど)当分は長くなるかもしれない。これは、その業界の賃金構造や、物価に連動してどれくらい賃金上昇が行われるのかにもよるのだけど、目先は結構苦しくなることになるだろう。
一方、海外で働く気満々の場合は、この事態はその方向性を決める最後の一押しとすらなりうる。日本国内の経済が混乱し、賃金もさほどは早く対応してこない中で、ドルやアジアの通貨等で働けば、もともと発生している借金に対しては、ある程度想定どおり返済をすることが可能になる。
2)留学し終わって、日本国内でドル建ての債務を抱えている人たち
結論から言うと、一番大きな被害を受けることになるのかもしれない。日本で円建ての給料をもらい、ドル建てで返済をしている人たち。単純に、円ベースで見た借金の額が増えることになる。もちろん、海外で職を見つけられるならば別の話ではあるが、学生のジョブサーチに比べれば選択肢は格段に少ないのは事実である。なので、とりあえず円がかなり強い今のうちに、できるだけ早期の返済をお勧めするほかない…
3)これから留学しようとしている人たち
本記事で一番触れたいのは、この層について。
実は、インフレが来つつも、国内の教育費や賃金の調整がゆっくりになると想定される中では、下記の変化があると思われる。
- 初期の反応として、一般的な留学生の数は減るであろう。日本国内での、海外留学向けに貯められていた資金の購買力は減少するし、財団が奨学金を出す体力も減ることになる(資産運用次第ではあるが)。
- 中長期的には、海外に向けて飛び出す若者は増えると思われる。財政危機を迎えた国というのは、生きていてもつらいものだ。現役世代に対して、増税、高金利、社会保障費の厳しい見通しという苦悩が増える中で、日本で生きていくメリットは、絶対水準では下がらざるを得ない。よって、才能がある人は海外に出るだろうし、おそらくしばらくは戻ってこないだろう。現在留学している人たちも同様で、帰ってもあまり楽しくなさそうな人生と、キャリアを最も磨くべき時期に日本市場に向かうくらいなら、こちらに留まるだろう。このような選択の結果、途上国の教育問題でよく課題になる、Brain Drainが本格化することが、考えられる。既に起きているフシもあるが、日本でもっとも優秀な層から、人材は逃げていくことになる(*2)。
- 2.の効果が、日本国内の社会の利益になるのかは、これからの社会の変化次第といえる。留学生が増えること自体は、在外人の視点からはマシに思える状態なのかもしれない。ただし、中国人学生や、インド人学生が見せているような、「ウミガメ」現象(母国への人材の還流)が発生して、もっとも優秀で、海外で研鑽を積んできた層が、日本を再度盛り立ててくれるかは疑問である。中印の場合は、まだ国に伸びしろがたくさんがるが、日本の場合は成熟国かつ、(産業にもよるが)ビジネスの参入障壁が色んな所で高い、ということもあって、期待しにくい。
- 結局のところ、3.の問題を解決するには、優秀な人材に報い、例えば20代、30代のうちから大会社の役員級の裁量(と報酬)を与えられる環境が生まれるしかない(勿論実績を示せた場合)。今、日本にある選択肢は、外資系企業やベンチャー企業等、限られているのが実情で、主流の企業でもこれを行わない限り、日本の底力の変化を見ることはなかなか難しい。
日本が困窮する中で、それを立て直せる人たちに、日本は旧来の世界観からしたら「媚びる」制度を受容する必要がある。
「海外で活躍できる」優秀な層、というのは、いわゆる税制に対するブラックジョークである「逃げられないから課税される」層の対極にいる人たちだ。一流の人材が集まって努力するよりも、稀代の天才が生むことができるものの方が重宝される社会の中では、この層をないがしろにはできないし、むしろ国家のお客さん、とすら言える。一番それを露骨にやっているのはシンガポールだし、アジア各国にある特区だってそうだし、シリコンバレーだってその一類型といえる。本物のタレントを、日本に引きよせる制度を作れるかどうかが、財政危機後に日本がプレゼンスある国になれるかを決める、唯一の要素である気がする。
また、今世紀も来世紀も、資源の無い日本には「世界に売れる」ものを作るという宿命がある。世界の経済成長の大半を新興国が担う中、製造業に求められるニーズも、「日本の技術・消費者に育てられた」では厳しい。幸いにも、新興国のニーズや制度の標準を決める人たちは、先進国に学びに来ている人たちであり、稀代の天才じゃなくっても、こういう人たちとお知り合いであり、いざとなったときに広い意味での外交ができることが、国の戦略として必至であると感じる。
*1 GSBではあまり多くは無い金融市場そのものを扱うDebt Marketsを担当する名物教授。ただし、彼自身がムーディーズの取締役をかねているので、上記は業界的水準では常識だが、一般的には利益相反も含んだ発言といえる。
*2 スタンフォードの場合なら、多くのケースでMBAの留学費用は大学経由でCo-signerなしで借りることができる(参照)。Ph.D志向であっても、頭脳の自信さえあれば、これも奨学金等を駆使して、なんとしてでも一年間食いつなぐ手段は確保してくるだろう。研究者の場合、ポストも予算も限られた日本国内の研究環境に比べれば、最終的に競争に負けるリスクを取ってでも、こちらに来る理由は多い。
なお、研究者向け海外留学については、ぜひぜひ米国大学院学生会(リンク)へ
(本ブログに記載された内容は私個人としての意見・見解であり、所属する組織の意見・見解と一致するものではありません )
2011/01/24
人は見た目が九割、場合によっては十割
今学期、座っただけで気分が高揚する授業を履修している。目の前の講師は、資産額二千億円超にして、まだ三十代の投資家。後述する理由のために、名前は伏せておこう。調べればすぐわかる。
彼の教える内容は主権について。
今週のテーマは貨幣とバブルについてであり、南海泡沫事件や金本位制、ネットバブルの話が扱われた。歴史や人類の根本欲求に照らし、もし国を作るとしたら、これらの要素をどう考えるべきか。このテーマに沿って、授業はエネルギッシュに進行していた。
そして、彼本人のバブル体験談。彼の、いまや大変有名なベンチャーが韓国に行った時、あまりの投資需要の強さでわらわらと色んなファミリーが接近し、帰りの空港までの間だけでも三人から投資させて下さい、と拝まれまくったのだそうだ。空港でもその人たちが勝手にファーストクラスのチケットを購入、帰ったら何もサインしていないのに五億円が口座に振込まれていた、などなど。
さて、彼の授業に登壇する際のファッションは決まっていて、開けすぎだろ、と思う程の胸ボタンを開けたシャツとスーツ。若干紅潮した顔が、迫力を伝えてくる。しかし、木曜日の授業の間、私は全くその迫力を感じることがなかった。授業開始後、30分ほどが経過したときに気づいたのだが、
チャックが全開である。
男性諸兄は分かるだろうが、
チャックというものは左右というよりも上下構造になっており、座ったりしない限り、開いていても、本人から見て右側の人以外には気付かれにくい。私が座していたのはまさにその右サイド。
横に座る学生の目線は講師の上半身に集中しており、我々の後ろにも学生はいない。つまり、気づいているのは、クラスで自分だけ、という可能性が濃厚である。
チャックの中からは、何というか自己主張の強いパーツ(太ももなど)が顔を覗かせていた。しかし、手を挙げて指摘するわけにも行くまい。何かメモを渡せないかとも画策したが、そのタイミングも訪れることはないだろう。
それにしても、自信満々のビジネスマンがエネルギッシュに話をしていて、チャックが全開というのは、想像を超えて笑いを誘うものだ。こらえるのがつらい。もう何を喋っていても連想がチャックに及ぶ。そして、金融政策(*1)の話をされている時に、その時、は来た。彼が口走った言葉は
Discount Window
日本人以外には通じない、社会の窓という表現とのコラボ。何をディスカウントするの、とか考えながら悶絶しそうだった瞬間に授業が終わった。
授業後、頃合を見て言おうと思ったら、彼はそそくさと帰ってしまった。
ということで、男性はプレゼンの前に社会の窓の確認をしましょう、というお話でした。
*1 なお、まともに面白かった話として、バブルの引き締めを行う中央銀行総裁ほど厳しいポジションはない、という話もありました。私も笑いをこらえつつ、日本でも未だに総量規制をタイムマシンで止めようとする映画がありますよ、みたいな発言をそういえばしていた。
2011/01/14
新キャンパスお目見え
新キャンパスの利用が先週から部分的に開始。私の場合、GSBの授業4コマのうち、1つのみがここなので、あんまり生活は変わりません。むしろ、駐車場が適切な距離にないので、苦労しているような感じ(*1)。
当初はもっと早くできるよ、といわれ、金融危機で遅延されて、下手したらお目見えできないんじゃないか、とまでいわれていたのですが、無事、ここで授業を受けることが出来た。
まだ、部分的に完成しているだけなので、まだ教室と小さなスナックコーナーの利用に限られているところです。正直なところ何が違うのか、といわれると、さほどはない(一部のミーティングルームを除く)わけですが、まあ、うれしいかな、という程度。椅子はロースクール(部屋によっては全てアーロンチェア)に比べれば普通だし、別に教壇と椅子、ホワイトボードという関係はあまり変わらないわけであります。
なお、たまに、受験中の方から、新キャンパスになることについてエッセイで触れるべきか、と聞かれるのですが、個人的には「断じて意味はない、むしろ文字数分ムダ」というのが正しい答えかと思われます。GSBについてではなく、自分を持ち上げることに全要素を費やしてくださいませ。
ちなみに、紹介のビデオは以下の通り。
*1 駐車場の確保は結構難題。旧GSB校舎の裏側にはそれなりにスペースがあるのだが、少し離れた場所で授業があると、移動時間をちゃんと見ないと大変な目に遭う。年間800ドル弱駐車場代取る割に、あんまり便利なところのスペースがないんです。
2011/01/11
冬学期の履修状況
冬学期が1月3日に始まり、下記の履修スケジュールを確定。
①コーチング/メンタリング 月・金 10:00-11:45
②ハイ・パフォーマンス・リーダーシップ 月・金 13:15‐15:00
④行動ファイナンス 火・木 10:00-11:30
⑤中国語会話 火・木 13:15-14:05
⑥技術的変化と主権(Peter Thiel) 火・木 14:15-15:45
⑦インフラと破壊的テクノロジー 火 19:00‐20:15
⑧現代の企業法務 木 16:15-18:15
なかなかヘビーです。
①コーチングでは隔週ベースで3人の一年生とのセッションが、②の通称HPLでも毎週2.5時間の相互学習セッションがある。①と②を通じて、前学期のTouchy Feelyで得た経験をベースにより実践的なトレーニングを行い、よりプロフェッショナルに近い環境下での影響力を磨く位置づけ。
個人的な楽しみは何と言っても⑥。ペイパルマフィア(参照)のドンとして君臨するピーター・シールが、なぜか(笑)国家についてロー・スクールの教鞭を取る主権論である。ヘッジファンドを運用しつつ、Facebookを始めとする数々の著名企業のシード投資家でもある彼は、思想面では弩の付くリバタリアン。自由至上主義に基づく海洋コロニーに投資したりと、投資の世界でも思想の世界でも暴れ放題である。
彼は、インターネットや新興国の隆盛を通じて、経済や個人の活動が過去とは全く異なるスピードで変化する中、既存の国家の枠組みでは、インフラ供給や制度変化が疎かになることを予見している。授業のリーディングで課されているのも、SF本と経済/哲学の古典のミックス。授業を通じて、彼が意外と常識的でありながら、どのポイントで攻撃を仕掛けようとしているのか、見極めていきたい。
加えて、⑧も密かな楽しみ。元SEC委員のグランドフェスト教授(ロースクール)が、企業にとっての法務の位置づけを再考するというもの。エンロン、タイコ、エクソンモービルといった、法務やコンプライアンスに関する象徴的な事件の当事者を呼んで、好き放題質問をして良いという授業。
これに加えて、③、④のような定番のファイナンスの授業で、どれだけしっかりと勉強をしておけるか、が今学期の課題ですね。
①コーチング/メンタリング 月・金 10:00-11:45
②ハイ・パフォーマンス・リーダーシップ 月・金 13:15‐15:00
③債券市場(Duffie) 月・金 15:15‐17:00
⑤中国語会話 火・木 13:15-14:05
⑥技術的変化と主権(Peter Thiel) 火・木 14:15-15:45
⑦インフラと破壊的テクノロジー 火 19:00‐20:15
⑧現代の企業法務 木 16:15-18:15
なかなかヘビーです。
①コーチングでは隔週ベースで3人の一年生とのセッションが、②の通称HPLでも毎週2.5時間の相互学習セッションがある。①と②を通じて、前学期のTouchy Feelyで得た経験をベースにより実践的なトレーニングを行い、よりプロフェッショナルに近い環境下での影響力を磨く位置づけ。
個人的な楽しみは何と言っても⑥。ペイパルマフィア(参照)のドンとして君臨するピーター・シールが、なぜか(笑)国家についてロー・スクールの教鞭を取る主権論である。ヘッジファンドを運用しつつ、Facebookを始めとする数々の著名企業のシード投資家でもある彼は、思想面では弩の付くリバタリアン。自由至上主義に基づく海洋コロニーに投資したりと、投資の世界でも思想の世界でも暴れ放題である。
彼は、インターネットや新興国の隆盛を通じて、経済や個人の活動が過去とは全く異なるスピードで変化する中、既存の国家の枠組みでは、インフラ供給や制度変化が疎かになることを予見している。授業のリーディングで課されているのも、SF本と経済/哲学の古典のミックス。授業を通じて、彼が意外と常識的でありながら、どのポイントで攻撃を仕掛けようとしているのか、見極めていきたい。
加えて、⑧も密かな楽しみ。元SEC委員のグランドフェスト教授(ロースクール)が、企業にとっての法務の位置づけを再考するというもの。エンロン、タイコ、エクソンモービルといった、法務やコンプライアンスに関する象徴的な事件の当事者を呼んで、好き放題質問をして良いという授業。
これに加えて、③、④のような定番のファイナンスの授業で、どれだけしっかりと勉強をしておけるか、が今学期の課題ですね。
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