2010/01/13

本質を考えるということ(MBAとリベラル・アーツ)

GSBには、Student-blastと呼ばれる、参加者の誰もが送付可能な、(ほぼ)全員配信のメーリングリストがある。毎日数十通送られてくるその中身は、明日午前車を貸してくれだの、誰かシスコに知り合いはいないかだの、どうやってスピード違反チケットを減免するかだの、と様々。そして、たまには結構役に立つ記事が送られてきたりする。

先日、送られてきたNY Timesの記事は、今のカリキュラムの空気感を代表するものだと感じた。
Multicultural Critical Theory. At B-School?
http://www.nytimes.com/2010/01/10/business/10mba.html

文中に以下の表現がある。
Learning how to think critically — how to imaginatively frame questions and consider multiple perspectives — has historically been associated with a liberal arts education, not a business school curriculum, so this change represents something of a tectonic shift for business school leaders.

(意訳)クリティカルに思考すること―問題の枠組みを想像し、複数の立場から検討すること―は、従来はリベラル・アーツ教育の担当する範囲であり、ビジネス教育の範疇の外にあるもの、とされてきた。(クリティカル思考への注力は、)ビジネス・スクールの地殻変動を代表する動きといえる。

本質をちゃんと考えよう、なんてことは、何というか当たり前過ぎて、言っている方が恥ずかしくなってしまうようなもの。ただ、それだけに、おざなりな扱いを受けることも多いし、青臭いといわれてしまったり、○○の世界では通用しない、と言われたり。
もちろん、本質をしっかり知ってるだけでは、何もできない。本質を知った上で、そのシステムの中でどんな妥協が行われているのか、どこにパワーバランスがあるのか、何がトレンドなのか、地道にプロとしての理解する研鑽があってこそ、やっと何か食い扶持になるものが生まれてくる。そして、それも破壊的な環境変化・イノベーションで一気に置き去りされてしまったりする。
金融危機の戦犯輩出制度とすら形容されるMBAがこういった要素を取り上げる理由には、結構スタンドプレーもあると感じる。元々、結構クリティカルシンキングが重要という発想法がいくつかの学校で目立っていた中で、「偽物のビジネスを見抜く目を養う」というのはある意味経済危機に便乗した商法ともいえるのかもしれない。でも、unprecedentedという号砲の下に何でもありの発想が跋扈する中、これを本気でやってくれるのは大変ありがたいことと感じている。

と、言い切ってしまったが、シビアな秋学期を経て、実はさほどクリティカルな思考のレベルが上がったとは、思えていない。一朝一夕のものではないことは、コースの中でも繰り返し強調されていたし、まさにその通り。その上で、しっかり分かったこととしては、これも青臭いのだけど;

1)重要な問題に、そう簡単な解はない
2)変化を起こせる人は、ちゃんと勉強し、悩んでいる

という2点。よって、何だか勉強する気がより強まったというか、同じ問題や、授業や、ビジネスリーダーの平凡な意見の中に、より学べるポイントがあるのではないか、と読み取る耐久力が付いたような気がしている。同時に、その延長線上で、継続することの重要性と、やっぱりちゃんと教科書を読んでいないとダメだ、という危機感を持った。教科書を読むって、学部時代には重視してたけど、どうしても仕事だと後手後手に回りがちだった。個人的に、この基礎をちゃんと思い出せたことは大きい気がしている。きっと、他の学生にとっても、その人なりの「本質の考え方」があって、秋学期を通じて、それを復習したことが学びになってるのだろう。


ちなみに引用文中にあった、ビジネススクールでのリベラル・アーツ的教育への歩みは、どれだけ進んでいくのだろうか。文中にもあるようにChicagoとTorontoといった間で、必修科目としての扱いに二極化が起きるのかもしれない。Stanfordも後者のグループに属していくのだろう。ただ、リベラル・アーツ的な教育は、学部時代に徹底してやるべきものだ、という見方もあると思う。自らの思想のベースは、MBAのレベルになって確立するのは正直遅いのだろうし、MBAでのそういった教育の役割は、「復習」に徹するべきなのかもしれない。復習を早めにしっかりやる、という位置づけの中では、GSBの秋学期のカリキュラムというのは、当事者からは忙しすぎる/色々ありすぎると不満も多いけど、割と整合的にできているのかもしれない、と感じた。

一言余計に、日本への示唆を考えると、教養、という言葉で括られる学部は、より専門的な学部に比べてどうしても軽視されている気もするし、違う名前であっても、社会科学の中で正しい統計の扱い方がなされていなかったり、何だか空理空論の泥仕合のようなことも多かったりするし。
米国でリベラル・アーツが、開拓者時代のリーダーの自律や、「自由」というテーマをどうやって取り扱うのか、といった問題意識を持っていたことに比べると、どうしても日本ではその必要性自体が認識しにくいのだろう。ただ、今の米国のような「迷えるとき」、に指針になる、という芯の強さは、何事にも代えがたいものだと感じる。
このことは強く羨むべきだ。とあるスタンフォードPh.Dの方の本選びのセンスには、基本を理解する気が無いという、底なし沼の様な絶望感を感じた(参照)。日本育ちの人が海外で教育を受けるときには、カリキュラムの中でのリベラル・アーツの扱いをじわじわと学習することができることも、メリットになるのかもしれない。

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