オフネタばかりだが、ちょっと学術では基礎的な内容に触れることが最近は多いので。。。もう少し体系的に面白いことが見えてきたら書きます。
12月の初めにくるみ割り人形、昨晩は白鳥の湖と、サンフランシスコ・バレエ団(参照)の公演を見てきた。前者の公演はDVDにもなって日本でも発売されている模様(参照)。バレエ団はSNSやローカルメディアのネット上でも結構広告を流したり、リピーターにはDMを頻繁に送ってきたりと、日常的に目に入る存在になっている。
昨晩は、DMで白鳥の湖の「出演者へのインタビュー、観劇、劇後のレセプション」がセットになって59ドル、というオファーがありうまいこと乗せられて参加してきてみた。夜7時からのプログラム開始のために、5時前には家を出たのだが、雨と夕方の101という、最悪の交通状況の取り合わせで到着したのが7時半。
仕方がないのでサンドイッチ(場内だと一つ十ドル、高い)をつまんで、インタビュー部分は諦め、本劇へと足を運ぶ形になった。
前回、くるみ割り人形を見に来た時には子ども向けにプロモーションが行われていたせいか、小さな子どもが客席に多くて、おしゃべりや飴の包み紙音を立てたり、あんまり集中できなかった。しかし、白鳥の湖は流石大人の世界という感じで、しっかりとドレスアップした夫婦やカップルだらけ。こっちの人は夜はちゃんとお洒落して出かけるんだなー、と感心。
バレエの知識がないので、内容をどうこう言うことはできないのだけど、公演はこれぞ一流、というもので、最後まで(短時間睡眠にもかかわらず、寝ないで)集中して見る事ができた。白鳥の湖だと、32回転が一番の見せ場とされるけど、40「人」近い白鳥が一糸乱れぬ動きを見せると、何だか夢を見ているような気になる。
学術の理解に妥協の多いMBAとは対極にあるようなストイックな世界を垣間見て、ストイックさを追求するなら徹底しないと、と反省してみたり。
公演後のレセプションは、スポンサーをやってるウォッカを使ったカクテルとか、ワインとか、チーズがふんだんに振舞われていて、このお金はどこから来ているんだろうと考えてみたり。儲かりすぎると怒られるからか。
オペラハウスの3階にあるレセプションルームからは、目の前の市議会の一部が見える。シックな場所で、何だか大音量でクラブミュージックが流れていて、滅茶苦茶きついウォッカ・マティーニが振舞われていてと、何だかカオスな空間だった。インタビューも含めれば、案外デートにオススメできるかもしれない、10ドルのスパークリングワインも飲み放題だったし。なお加州では、飲酒運転は、一杯ならば何とか大丈夫、二杯目からはグレーゾーン、と定められている(参照、の81p図表を参照)。
余談だが、バレエ団の宣伝では、必ず「寄付のお願い」が来る。大口のスポンサーにはVCの他に金融機関が多いけど、こういうところへの資金援助とTARPへの資金返済は関係ないみたい(参照)。
個人も、凄いレベルでの寄付をぽん、と出しているあたりには(参照)、財団への税制の違いを感じさせられる。
更なる余談。おそらくほとんどの公演が行われるWar Memorial Opera Houseはサンフランシスコ講和条約が締結された場所(参照)でもある。歴史的な場所でワインとチーズをいかが、というには、日本人にはちょっと歴史的過ぎる場所なのかもしれない。
2010/01/31
2010/01/24
(Offネタ)アバターを観てきた
ちょっと番外的だが、週末に今更ながら観てきたアバターの感想を。
元々、夫婦で映画が好きだ。年に60本くらい見た年もあったくらい。個人的な好みは、SFの中でも、ゼメキスのBack to the FutureやContact、ベッソンのFifth Elementみたいた、監督の個性と、分かりやすい設定が出てくる作品。キャメロンの作品では、アビスが好きで何度も観ていた。最近では、Timetraveller's Wife(きみがぼくを見つけた日、SFというには厳しいかもしれないけど)が良かった。こういう映画を見ると、観た後にその世界観を引きずる感じが心地良い。
ただ、こっちにきてからは字幕もないし、何より時間もないので、だいぶ映画はご無沙汰になっていた。そんな中、友人と会食したりfacebookでの発言を観たりしているうちに、何だか周囲はアバターを見ないやつはどうかしてる、みたいな雰囲気になっていることに気付く。取り残されてはいけないと思い、噂の3D対応シアターで観てきた。
以下はネタバレを含みますが、まだの人は見る時間を作るべき、とだけ書いておきます。
結論から言うとこの映画、現存する技術や発想の取り合わせで、SF映画作品の最長不到距離まで飛んだような印象だった。3Dの使い道もそうだけど、仮想現実(いや、リアルか)と、種族の分断と、ハリウッド的なドンパチを、これでもかというくらいに効率的に詰め込んでいて、これで売れなかったらSF映画はあかん、というパッケージになっていると思った。何より、キャメロンの鬼のような執念を感じ、この映画を撮るために全てをやってきたのでは、と思わさせられた。過去の自分の作品からの引用と、SF分野の作品、宮崎アニメと、きっと気づかなかった多数の映画へのオマージュに溢れていて、自らの世界観というのはこういった要素により形成されて、育てられたんだ、という気迫が伝わってくる。
話の内容は既に存分に紹介されているので触れないが、この映画の主題には、二つの軸があると感じた。一つは宮崎アニメに頻出する「世界の調和」で、もう一つは米国人が奥底で感じているのかもしれない開拓精神の疚しさなのだと思う。
前者の中でも、ナビ族の触手の用いられ方には、色んなメッセージを感じた。触手を使って、他の生物を直接コントロールできるわけでもなく、またいくら親しくなっても踏み込めない領域があることを自然に描き出している。そして、大きな植物がクラウドみたいな役割を果たしていて、そこを介在して二つの世界の間の往来が行われるという、子どものような発想力。マトリックスでは頭に電気プラグという、何とも痛々しいプロセスでその伝送が行われていたのに対して、アバターでは同じ行為がもうちょっと自然な、ナウシカの王蟲の触手のような生々しさに包まれている。あくまで、世界の調和には人類の良心が必要!みたいな、何だかストイックなテーマを練りこんでいて、なんだか一つの基本にやけに忠実だと感じた。
後者の開拓精神の疚しさは、あまりに前面に出されていることが衝撃的だった。もう一種のSFのジャンルとして確立されている(1)「退廃した地球」、の延長線で、(2)「相変わらず人間が宇宙を汚している(しかも株主至上主義により)」というのが重なっているのは、(1)金融危機後の安易な資本主義批判、と(2)温暖化問題、という二つの「超ベタ」な時代テーマに乗っかるという、何だか映画を売り込むためのなりふり構わない設定が取られている気になる。アビスの中でも、こういった割と説教くさいテーマは出て来たのだけど、当時、キャメロンはそれを控えめに出して、あんまり重くしすぎないことに成功していた。。さらに言うなら、スターウォーズも政治システムをそれとなく批判するくらいだったので想定観客の間でメッセージが生き残ったのだと思う。基本的に情報の受け取り手が十分思索して、こういうことなんだろう、とメッセージを類推するプロセスも、SFでは大事だから。
しかし、アバターでは情け容赦ない設定が取られていて、現地法人の社長(と言うべきか、、、)が困惑する表情を浮かべていたり、更に株主至上主義経営に乗っかった「戦争をやめられない軍曹」が映画のラスボスとして君臨しているあたりに、マイケルムーアと同じ意固地さを感じてしまった。より大きな人口に向けて、分かりやす過ぎるメッセージを打つという、ちょっと大き過ぎる賭けに出たような気がしている。
この強気なポジショニングと同時に、更にナビ族が「ほとんどインディアン」であることが、更にその印象を強いものとしている。他のブログで、Last of Mohicansに近いような主題だ、という指摘があったけれど、まさにその通りだと感じている。これらのコンボで考えると、キャメロンは政治的な意思ありありでこの作品を作っていたんだなあ、とSFへの愛との兼ね合いで考えると微妙な気分にもなったりする。
この映画、同級生の中での反応を見てると(1)とにかく映像や3Dや出てくる機材がクール、ストーリーも申し分なし、(2)中に出てくるデバイスや乗り物は面白かったけど、ストーリーは結構微妙、という感じに二分されている。個人的には結構(1)のほうで、やっぱりラスボス討伐後のご対面シーンとかはぐっと来るものがあった。(2)の反応の人たちは、秋学期のクリティカルシンキングの授業が良い特訓になったのかもしれない(笑)
ちなみに、続編も構想中なのだと。正直、予測市場があるなら二作目は絶対コケる方に掛けたい。既に出すべきメッセージネタの在庫は尽きてしまったように思えるし。ただ、T2という偉業をやった監督だけにそこは是非成功して欲しい、という応援もしたいところ。
最後に3D技術について。今までもUSJのスパイダーマンライドとかで経験してたけど、昔からあったこの技術に、ちゃんと脅かす以外の位置付けを与えたことは大きいと感じる。予告編でみた不思議の国のアリス(またもバートン×デップという悪夢バージョン、笑)とか、映画館を廃れさせない道はまだまだあるのだな、と感じた。
元々、夫婦で映画が好きだ。年に60本くらい見た年もあったくらい。個人的な好みは、SFの中でも、ゼメキスのBack to the FutureやContact、ベッソンのFifth Elementみたいた、監督の個性と、分かりやすい設定が出てくる作品。キャメロンの作品では、アビスが好きで何度も観ていた。最近では、Timetraveller's Wife(きみがぼくを見つけた日、SFというには厳しいかもしれないけど)が良かった。こういう映画を見ると、観た後にその世界観を引きずる感じが心地良い。
ただ、こっちにきてからは字幕もないし、何より時間もないので、だいぶ映画はご無沙汰になっていた。そんな中、友人と会食したりfacebookでの発言を観たりしているうちに、何だか周囲はアバターを見ないやつはどうかしてる、みたいな雰囲気になっていることに気付く。取り残されてはいけないと思い、噂の3D対応シアターで観てきた。
以下はネタバレを含みますが、まだの人は見る時間を作るべき、とだけ書いておきます。
結論から言うとこの映画、現存する技術や発想の取り合わせで、SF映画作品の最長不到距離まで飛んだような印象だった。3Dの使い道もそうだけど、仮想現実(いや、リアルか)と、種族の分断と、ハリウッド的なドンパチを、これでもかというくらいに効率的に詰め込んでいて、これで売れなかったらSF映画はあかん、というパッケージになっていると思った。何より、キャメロンの鬼のような執念を感じ、この映画を撮るために全てをやってきたのでは、と思わさせられた。過去の自分の作品からの引用と、SF分野の作品、宮崎アニメと、きっと気づかなかった多数の映画へのオマージュに溢れていて、自らの世界観というのはこういった要素により形成されて、育てられたんだ、という気迫が伝わってくる。
話の内容は既に存分に紹介されているので触れないが、この映画の主題には、二つの軸があると感じた。一つは宮崎アニメに頻出する「世界の調和」で、もう一つは米国人が奥底で感じているのかもしれない開拓精神の疚しさなのだと思う。
前者の中でも、ナビ族の触手の用いられ方には、色んなメッセージを感じた。触手を使って、他の生物を直接コントロールできるわけでもなく、またいくら親しくなっても踏み込めない領域があることを自然に描き出している。そして、大きな植物がクラウドみたいな役割を果たしていて、そこを介在して二つの世界の間の往来が行われるという、子どものような発想力。マトリックスでは頭に電気プラグという、何とも痛々しいプロセスでその伝送が行われていたのに対して、アバターでは同じ行為がもうちょっと自然な、ナウシカの王蟲の触手のような生々しさに包まれている。あくまで、世界の調和には人類の良心が必要!みたいな、何だかストイックなテーマを練りこんでいて、なんだか一つの基本にやけに忠実だと感じた。
後者の開拓精神の疚しさは、あまりに前面に出されていることが衝撃的だった。もう一種のSFのジャンルとして確立されている(1)「退廃した地球」、の延長線で、(2)「相変わらず人間が宇宙を汚している(しかも株主至上主義により)」というのが重なっているのは、(1)金融危機後の安易な資本主義批判、と(2)温暖化問題、という二つの「超ベタ」な時代テーマに乗っかるという、何だか映画を売り込むためのなりふり構わない設定が取られている気になる。アビスの中でも、こういった割と説教くさいテーマは出て来たのだけど、当時、キャメロンはそれを控えめに出して、あんまり重くしすぎないことに成功していた。。さらに言うなら、スターウォーズも政治システムをそれとなく批判するくらいだったので想定観客の間でメッセージが生き残ったのだと思う。基本的に情報の受け取り手が十分思索して、こういうことなんだろう、とメッセージを類推するプロセスも、SFでは大事だから。
しかし、アバターでは情け容赦ない設定が取られていて、現地法人の社長(と言うべきか、、、)が困惑する表情を浮かべていたり、更に株主至上主義経営に乗っかった「戦争をやめられない軍曹」が映画のラスボスとして君臨しているあたりに、マイケルムーアと同じ意固地さを感じてしまった。より大きな人口に向けて、分かりやす過ぎるメッセージを打つという、ちょっと大き過ぎる賭けに出たような気がしている。
この強気なポジショニングと同時に、更にナビ族が「ほとんどインディアン」であることが、更にその印象を強いものとしている。他のブログで、Last of Mohicansに近いような主題だ、という指摘があったけれど、まさにその通りだと感じている。これらのコンボで考えると、キャメロンは政治的な意思ありありでこの作品を作っていたんだなあ、とSFへの愛との兼ね合いで考えると微妙な気分にもなったりする。
この映画、同級生の中での反応を見てると(1)とにかく映像や3Dや出てくる機材がクール、ストーリーも申し分なし、(2)中に出てくるデバイスや乗り物は面白かったけど、ストーリーは結構微妙、という感じに二分されている。個人的には結構(1)のほうで、やっぱりラスボス討伐後のご対面シーンとかはぐっと来るものがあった。(2)の反応の人たちは、秋学期のクリティカルシンキングの授業が良い特訓になったのかもしれない(笑)
ちなみに、続編も構想中なのだと。正直、予測市場があるなら二作目は絶対コケる方に掛けたい。既に出すべきメッセージネタの在庫は尽きてしまったように思えるし。ただ、T2という偉業をやった監督だけにそこは是非成功して欲しい、という応援もしたいところ。
最後に3D技術について。今までもUSJのスパイダーマンライドとかで経験してたけど、昔からあったこの技術に、ちゃんと脅かす以外の位置付けを与えたことは大きいと感じる。予告編でみた不思議の国のアリス(またもバートン×デップという悪夢バージョン、笑)とか、映画館を廃れさせない道はまだまだあるのだな、と感じた。
2010/01/22
新たなチームメンバーたち
履修した全ての教科において、別々のスタディグループで課題をやるという展開になっている。新たな仲間、とまではいかないけど、前のグループ(参照)に加えて、第一印象の備忘録として新たな面々の概要を残しておきたい。
V:会計の授業で一緒になったインド人。IIT(インドからの留学生の大半はIIT出身、いまやGSBの外国人学生の出身校としては最大)を出て、リーマンの日本拠点でインターンをしていたので、割と日本の話をよく聞いてくれる。
K:秋学期の初めの頃、CATのクラスでも一緒だった彼女に元の勤務先を聞くと、Agencyという答えが返ってきた。政府系機関とか官庁なのかな、と思っていたらなんとCIA。情報を集めてまとめて、文章を編集する、という一連の作業がすごくよくできる。
J:韓国でコンサルをしていた女性。話をまとめたり、MTGを効率よく進める、というのが板についていて羨ましい。英語もかなり堂々と話せる。
B:ブラジルのPEファンドから来た、元弁護士。彼のいたファンドの累積パフォーマンスは数千パーセントらしく、投資しないのはアホだとしきりに言ってくる。ちなみに、ブラジルでは弁護士の仕事はあんまり儲からないらしい。
P:ウイイレ好きで、GSBの学年では唯一のスリランカ人。GSBにくる直前に子どもが生まれたものの、奥さんとは別に一人暮らし中。工学系バックグラウンドから米国でPEファンドに勤めていた。
R:スタンフォード学部卒の韓国人男性。来る前は本国で4年ほど勤務、多分将来のプリンスなのだろう。割と堂々としているのだけど、ちょっと抜けた感じもあって好感が持てる。
B:エクセルの達人で、かなり頑固な元バンカー。ちなみに、GSBでは中々純粋に「投資銀行だけにいた」という人に出会えていない。ずっとバンカーで、多分年下のアナリストを相当詰めてたのかもしれないけど、こっちが書いた答えが不十分だったりすると、かなり遠慮のない指摘の仕方をしてくる。
I:元コンサルタント。中々チームが割り当てられるまでは性格が読めなかったけど、手際よく課題をこなしてくれる。
C:元PEファンドから、政府特命のGM再建チームに、唯一の若手として参加。頭のキレから、説得力の強さ、フランクな物言いまで、何だかとんでもないモンスターが自分のチームにいる、という感じ。
P:プリンストン大の基金運用をやった後、経済諮問会議でマンキューの助手をやり、海兵隊で諜報隊員を勤めていた。割りと初期からウマが合って、色んな話をしたのだけど、いざ何かExecutionしないといけなかったり、強引な意思決定が必要なときには、凄い馬力で説得してくる。NPO活動も自分でやっていて、アフリカの子どもの教育機関を設立している。
最後のCとPは、まさに今まで想像したこともなかったような優秀な人たち。こっちはタダの日本事情と経済・ファイナンスオタクというだけなのに、何だか仲良くさせていただいている、という気分になってくる。色々ストレスがたまることも多いチームワークながら、こういった人たちとディープに言い争ったり、譲歩したりすることができるのは、単に運が良かった、としか言いようがない。
V:会計の授業で一緒になったインド人。IIT(インドからの留学生の大半はIIT出身、いまやGSBの外国人学生の出身校としては最大)を出て、リーマンの日本拠点でインターンをしていたので、割と日本の話をよく聞いてくれる。
K:秋学期の初めの頃、CATのクラスでも一緒だった彼女に元の勤務先を聞くと、Agencyという答えが返ってきた。政府系機関とか官庁なのかな、と思っていたらなんとCIA。情報を集めてまとめて、文章を編集する、という一連の作業がすごくよくできる。
J:韓国でコンサルをしていた女性。話をまとめたり、MTGを効率よく進める、というのが板についていて羨ましい。英語もかなり堂々と話せる。
B:ブラジルのPEファンドから来た、元弁護士。彼のいたファンドの累積パフォーマンスは数千パーセントらしく、投資しないのはアホだとしきりに言ってくる。ちなみに、ブラジルでは弁護士の仕事はあんまり儲からないらしい。
P:ウイイレ好きで、GSBの学年では唯一のスリランカ人。GSBにくる直前に子どもが生まれたものの、奥さんとは別に一人暮らし中。工学系バックグラウンドから米国でPEファンドに勤めていた。
R:スタンフォード学部卒の韓国人男性。来る前は本国で4年ほど勤務、多分将来のプリンスなのだろう。割と堂々としているのだけど、ちょっと抜けた感じもあって好感が持てる。
B:エクセルの達人で、かなり頑固な元バンカー。ちなみに、GSBでは中々純粋に「投資銀行だけにいた」という人に出会えていない。ずっとバンカーで、多分年下のアナリストを相当詰めてたのかもしれないけど、こっちが書いた答えが不十分だったりすると、かなり遠慮のない指摘の仕方をしてくる。
I:元コンサルタント。中々チームが割り当てられるまでは性格が読めなかったけど、手際よく課題をこなしてくれる。
C:元PEファンドから、政府特命のGM再建チームに、唯一の若手として参加。頭のキレから、説得力の強さ、フランクな物言いまで、何だかとんでもないモンスターが自分のチームにいる、という感じ。
P:プリンストン大の基金運用をやった後、経済諮問会議でマンキューの助手をやり、海兵隊で諜報隊員を勤めていた。割りと初期からウマが合って、色んな話をしたのだけど、いざ何かExecutionしないといけなかったり、強引な意思決定が必要なときには、凄い馬力で説得してくる。NPO活動も自分でやっていて、アフリカの子どもの教育機関を設立している。
最後のCとPは、まさに今まで想像したこともなかったような優秀な人たち。こっちはタダの日本事情と経済・ファイナンスオタクというだけなのに、何だか仲良くさせていただいている、という気分になってくる。色々ストレスがたまることも多いチームワークながら、こういった人たちとディープに言い争ったり、譲歩したりすることができるのは、単に運が良かった、としか言いようがない。
2010/01/13
本質を考えるということ(MBAとリベラル・アーツ)
GSBには、Student-blastと呼ばれる、参加者の誰もが送付可能な、(ほぼ)全員配信のメーリングリストがある。毎日数十通送られてくるその中身は、明日午前車を貸してくれだの、誰かシスコに知り合いはいないかだの、どうやってスピード違反チケットを減免するかだの、と様々。そして、たまには結構役に立つ記事が送られてきたりする。
先日、送られてきたNY Timesの記事は、今のカリキュラムの空気感を代表するものだと感じた。
Multicultural Critical Theory. At B-School?
http://www.nytimes.com/2010/01/10/business/10mba.html
文中に以下の表現がある。
Learning how to think critically — how to imaginatively frame questions and consider multiple perspectives — has historically been associated with a liberal arts education, not a business school curriculum, so this change represents something of a tectonic shift for business school leaders.
(意訳)クリティカルに思考すること―問題の枠組みを想像し、複数の立場から検討すること―は、従来はリベラル・アーツ教育の担当する範囲であり、ビジネス教育の範疇の外にあるもの、とされてきた。(クリティカル思考への注力は、)ビジネス・スクールの地殻変動を代表する動きといえる。
本質をちゃんと考えよう、なんてことは、何というか当たり前過ぎて、言っている方が恥ずかしくなってしまうようなもの。ただ、それだけに、おざなりな扱いを受けることも多いし、青臭いといわれてしまったり、○○の世界では通用しない、と言われたり。
もちろん、本質をしっかり知ってるだけでは、何もできない。本質を知った上で、そのシステムの中でどんな妥協が行われているのか、どこにパワーバランスがあるのか、何がトレンドなのか、地道にプロとしての理解する研鑽があってこそ、やっと何か食い扶持になるものが生まれてくる。そして、それも破壊的な環境変化・イノベーションで一気に置き去りされてしまったりする。
金融危機の戦犯輩出制度とすら形容されるMBAがこういった要素を取り上げる理由には、結構スタンドプレーもあると感じる。元々、結構クリティカルシンキングが重要という発想法がいくつかの学校で目立っていた中で、「偽物のビジネスを見抜く目を養う」というのはある意味経済危機に便乗した商法ともいえるのかもしれない。でも、unprecedentedという号砲の下に何でもありの発想が跋扈する中、これを本気でやってくれるのは大変ありがたいことと感じている。
と、言い切ってしまったが、シビアな秋学期を経て、実はさほどクリティカルな思考のレベルが上がったとは、思えていない。一朝一夕のものではないことは、コースの中でも繰り返し強調されていたし、まさにその通り。その上で、しっかり分かったこととしては、これも青臭いのだけど;
1)重要な問題に、そう簡単な解はない
2)変化を起こせる人は、ちゃんと勉強し、悩んでいる
という2点。よって、何だか勉強する気がより強まったというか、同じ問題や、授業や、ビジネスリーダーの平凡な意見の中に、より学べるポイントがあるのではないか、と読み取る耐久力が付いたような気がしている。同時に、その延長線上で、継続することの重要性と、やっぱりちゃんと教科書を読んでいないとダメだ、という危機感を持った。教科書を読むって、学部時代には重視してたけど、どうしても仕事だと後手後手に回りがちだった。個人的に、この基礎をちゃんと思い出せたことは大きい気がしている。きっと、他の学生にとっても、その人なりの「本質の考え方」があって、秋学期を通じて、それを復習したことが学びになってるのだろう。
ちなみに引用文中にあった、ビジネススクールでのリベラル・アーツ的教育への歩みは、どれだけ進んでいくのだろうか。文中にもあるようにChicagoとTorontoといった間で、必修科目としての扱いに二極化が起きるのかもしれない。Stanfordも後者のグループに属していくのだろう。ただ、リベラル・アーツ的な教育は、学部時代に徹底してやるべきものだ、という見方もあると思う。自らの思想のベースは、MBAのレベルになって確立するのは正直遅いのだろうし、MBAでのそういった教育の役割は、「復習」に徹するべきなのかもしれない。復習を早めにしっかりやる、という位置づけの中では、GSBの秋学期のカリキュラムというのは、当事者からは忙しすぎる/色々ありすぎると不満も多いけど、割と整合的にできているのかもしれない、と感じた。
一言余計に、日本への示唆を考えると、教養、という言葉で括られる学部は、より専門的な学部に比べてどうしても軽視されている気もするし、違う名前であっても、社会科学の中で正しい統計の扱い方がなされていなかったり、何だか空理空論の泥仕合のようなことも多かったりするし。
米国でリベラル・アーツが、開拓者時代のリーダーの自律や、「自由」というテーマをどうやって取り扱うのか、といった問題意識を持っていたことに比べると、どうしても日本ではその必要性自体が認識しにくいのだろう。ただ、今の米国のような「迷えるとき」、に指針になる、という芯の強さは、何事にも代えがたいものだと感じる。
このことは強く羨むべきだ。とあるスタンフォードPh.Dの方の本選びのセンスには、基本を理解する気が無いという、底なし沼の様な絶望感を感じた(参照)。日本育ちの人が海外で教育を受けるときには、カリキュラムの中でのリベラル・アーツの扱いをじわじわと学習することができることも、メリットになるのかもしれない。
先日、送られてきたNY Timesの記事は、今のカリキュラムの空気感を代表するものだと感じた。
Multicultural Critical Theory. At B-School?
http://www.nytimes.com/2010/01/10/business/10mba.html
文中に以下の表現がある。
Learning how to think critically — how to imaginatively frame questions and consider multiple perspectives — has historically been associated with a liberal arts education, not a business school curriculum, so this change represents something of a tectonic shift for business school leaders.
(意訳)クリティカルに思考すること―問題の枠組みを想像し、複数の立場から検討すること―は、従来はリベラル・アーツ教育の担当する範囲であり、ビジネス教育の範疇の外にあるもの、とされてきた。(クリティカル思考への注力は、)ビジネス・スクールの地殻変動を代表する動きといえる。
本質をちゃんと考えよう、なんてことは、何というか当たり前過ぎて、言っている方が恥ずかしくなってしまうようなもの。ただ、それだけに、おざなりな扱いを受けることも多いし、青臭いといわれてしまったり、○○の世界では通用しない、と言われたり。
もちろん、本質をしっかり知ってるだけでは、何もできない。本質を知った上で、そのシステムの中でどんな妥協が行われているのか、どこにパワーバランスがあるのか、何がトレンドなのか、地道にプロとしての理解する研鑽があってこそ、やっと何か食い扶持になるものが生まれてくる。そして、それも破壊的な環境変化・イノベーションで一気に置き去りされてしまったりする。
金融危機の戦犯輩出制度とすら形容されるMBAがこういった要素を取り上げる理由には、結構スタンドプレーもあると感じる。元々、結構クリティカルシンキングが重要という発想法がいくつかの学校で目立っていた中で、「偽物のビジネスを見抜く目を養う」というのはある意味経済危機に便乗した商法ともいえるのかもしれない。でも、unprecedentedという号砲の下に何でもありの発想が跋扈する中、これを本気でやってくれるのは大変ありがたいことと感じている。
と、言い切ってしまったが、シビアな秋学期を経て、実はさほどクリティカルな思考のレベルが上がったとは、思えていない。一朝一夕のものではないことは、コースの中でも繰り返し強調されていたし、まさにその通り。その上で、しっかり分かったこととしては、これも青臭いのだけど;
1)重要な問題に、そう簡単な解はない
2)変化を起こせる人は、ちゃんと勉強し、悩んでいる
という2点。よって、何だか勉強する気がより強まったというか、同じ問題や、授業や、ビジネスリーダーの平凡な意見の中に、より学べるポイントがあるのではないか、と読み取る耐久力が付いたような気がしている。同時に、その延長線上で、継続することの重要性と、やっぱりちゃんと教科書を読んでいないとダメだ、という危機感を持った。教科書を読むって、学部時代には重視してたけど、どうしても仕事だと後手後手に回りがちだった。個人的に、この基礎をちゃんと思い出せたことは大きい気がしている。きっと、他の学生にとっても、その人なりの「本質の考え方」があって、秋学期を通じて、それを復習したことが学びになってるのだろう。
ちなみに引用文中にあった、ビジネススクールでのリベラル・アーツ的教育への歩みは、どれだけ進んでいくのだろうか。文中にもあるようにChicagoとTorontoといった間で、必修科目としての扱いに二極化が起きるのかもしれない。Stanfordも後者のグループに属していくのだろう。ただ、リベラル・アーツ的な教育は、学部時代に徹底してやるべきものだ、という見方もあると思う。自らの思想のベースは、MBAのレベルになって確立するのは正直遅いのだろうし、MBAでのそういった教育の役割は、「復習」に徹するべきなのかもしれない。復習を早めにしっかりやる、という位置づけの中では、GSBの秋学期のカリキュラムというのは、当事者からは忙しすぎる/色々ありすぎると不満も多いけど、割と整合的にできているのかもしれない、と感じた。
一言余計に、日本への示唆を考えると、教養、という言葉で括られる学部は、より専門的な学部に比べてどうしても軽視されている気もするし、違う名前であっても、社会科学の中で正しい統計の扱い方がなされていなかったり、何だか空理空論の泥仕合のようなことも多かったりするし。
米国でリベラル・アーツが、開拓者時代のリーダーの自律や、「自由」というテーマをどうやって取り扱うのか、といった問題意識を持っていたことに比べると、どうしても日本ではその必要性自体が認識しにくいのだろう。ただ、今の米国のような「迷えるとき」、に指針になる、という芯の強さは、何事にも代えがたいものだと感じる。
このことは強く羨むべきだ。とあるスタンフォードPh.Dの方の本選びのセンスには、基本を理解する気が無いという、底なし沼の様な絶望感を感じた(参照)。日本育ちの人が海外で教育を受けるときには、カリキュラムの中でのリベラル・アーツの扱いをじわじわと学習することができることも、メリットになるのかもしれない。
2010/01/08
冬学期始まる
1月4日から授業は開始。GSB一年生は基本的に一年間、割と固定されたコースワークをこなすため、内容の毛色はさほど変わらないが、クラスがリシャッフルされた状態で始まるので、割と新鮮な思いで学校に通っている。履修している科目は以下。
・組織の経済学
・Eコマース
・マーケティングと競争環境
・会計学
・確率データと意思決定
これらは全て、基礎的な授業の初級・中級・応用のいずれかとして位置付けられているのだが、組織の経済学(ミクロ経済学の応用コースに相当、英語名はEconomics of Organization)の履修内容には驚かされている。(以下、経済学用語に溢れている点ご容赦下さい)
始まる前は、ミクロ経済学の応用コースであれば、不完全競争のおさらいをやって、契約理論の枠組みを使って雇用体系とかの良し悪しを考えたり、産業組織論のネタとかを扱うのだと思っていた。しかし、全然レベルが違った。
授業の初回から、不均一な財の取引メカニズムの質をどうやって判定するのか、という課題が課されて、皆あーでもないこーでもないと、「絶対に完全な解がない」問題に対して右往左往。二回目の授業(同じ週の木曜)の課題では、同じ会社の中でエンジニアを貸し出すマーケットの取引メカニズム(貸し手と借り手の情報の非対称性等、意地悪な前提が複数ある)を考えて、その欠点と共にプレゼンせよ、といった課題が出ていて、何だか経済学の修士課程に飛び入り参加してしまったような感慨に包まれている。正直なところ、今までの二回のぺースがこのままの2年間続けば、(ちゃんと付いていければ)メカニズム・デザインのPh.Dが取れてしまうんではないかと思ってしまうくらい。
教授は、ロバート・オーマン(参照)のイスラエルでの弟子で、これぞゲーム理論学者、という感じの人である(ちょっとクレージーな感じも)。学生時代に組織の経済学をバイブルにしていたので、元々楽しみにしていた授業ではあったが、予想外のレベルで好奇心をそそられている。
他の授業も、それなりにシビアな内容。Eコマースとかは、Salesforce.comからLinden labまで、ありとあらゆるシリコンバレー的企業のケースを網羅して、その競争優位をエクセルワークを通じて知るというもの。マーケティング(初級)は、企業経営モデルを動かして互いのチーム同志で競うというもの。会計学(応用)では、初回の授業でITバブル期のアナリスト不正が暴かれる過程を扱い、主要な「会計操作の素」を知るような構成になっている。
まだ始まって3日だが、秋学期の授業の多くがCEOとしての目線を鍛える内容であったのに対し、冬・春学期は「CFO、CIO、COO、マーケティング等の部門長、エンジェル投資家等の目線」を鍛えるパートになるのかもなあ、と今のところ感じている。結構ワークロードも重い(とりわけ、チームでやる課題が増えた)中で、今後どうなることやら。
・組織の経済学
・Eコマース
・マーケティングと競争環境
・会計学
・確率データと意思決定
これらは全て、基礎的な授業の初級・中級・応用のいずれかとして位置付けられているのだが、組織の経済学(ミクロ経済学の応用コースに相当、英語名はEconomics of Organization)の履修内容には驚かされている。(以下、経済学用語に溢れている点ご容赦下さい)
始まる前は、ミクロ経済学の応用コースであれば、不完全競争のおさらいをやって、契約理論の枠組みを使って雇用体系とかの良し悪しを考えたり、産業組織論のネタとかを扱うのだと思っていた。しかし、全然レベルが違った。
授業の初回から、不均一な財の取引メカニズムの質をどうやって判定するのか、という課題が課されて、皆あーでもないこーでもないと、「絶対に完全な解がない」問題に対して右往左往。二回目の授業(同じ週の木曜)の課題では、同じ会社の中でエンジニアを貸し出すマーケットの取引メカニズム(貸し手と借り手の情報の非対称性等、意地悪な前提が複数ある)を考えて、その欠点と共にプレゼンせよ、といった課題が出ていて、何だか経済学の修士課程に飛び入り参加してしまったような感慨に包まれている。正直なところ、今までの二回のぺースがこのままの2年間続けば、(ちゃんと付いていければ)メカニズム・デザインのPh.Dが取れてしまうんではないかと思ってしまうくらい。
教授は、ロバート・オーマン(参照)のイスラエルでの弟子で、これぞゲーム理論学者、という感じの人である(ちょっとクレージーな感じも)。学生時代に組織の経済学をバイブルにしていたので、元々楽しみにしていた授業ではあったが、予想外のレベルで好奇心をそそられている。
他の授業も、それなりにシビアな内容。Eコマースとかは、Salesforce.comからLinden labまで、ありとあらゆるシリコンバレー的企業のケースを網羅して、その競争優位をエクセルワークを通じて知るというもの。マーケティング(初級)は、企業経営モデルを動かして互いのチーム同志で競うというもの。会計学(応用)では、初回の授業でITバブル期のアナリスト不正が暴かれる過程を扱い、主要な「会計操作の素」を知るような構成になっている。
まだ始まって3日だが、秋学期の授業の多くがCEOとしての目線を鍛える内容であったのに対し、冬・春学期は「CFO、CIO、COO、マーケティング等の部門長、エンジェル投資家等の目線」を鍛えるパートになるのかもなあ、と今のところ感じている。結構ワークロードも重い(とりわけ、チームでやる課題が増えた)中で、今後どうなることやら。
2010/01/01
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